File:00 プロローグ

 幾億の星とたった一つの月が、この飛空艇を見下ろしている。
 夜の闇と、それを映す黒々とした海。今、この惑星のどこかでは朝が来ているなんて信じられない程、ただただ境界線も分からない闇だけが続いていた。
 遠くから見ればその中を飛ぶこの飛空艇はひどく頼りなく、彷徨っているようにも見えるかもしれない。だが、GPS衛星と常に通信を続けているこの船は迷いなく、確実に目的地へ向かって飛んでいた。
 夜の静けさとは裏腹に船内は明るく、フロントガラス前に浮かぶ幾つもの空中ディスプレイが天候、気温、風向き、現在位置、時刻、直近のニュース、中央統理機関の動向や議事録――様々な情報を忙しなく更新し続けている。
 それら全てを横目で流しつつ、俺はぼうっと窓を見ていた。
 外にあるのは闇。見えるのは空いた穴のように浮かぶ月と、左目に眼帯をした赤いコートの男――ガラスに映る俺自身だけだ。
 船は自動操縦に切り替えているから、俺がコンソールに座り続ける必要はない。寝室で眠ってしまってもよかったが、何も考えずに変わらない景色を見ているとその内、窓という隔たりを忘れて俺自身が海の上を滑空しているような気分になれる。そんな夢想じみた感覚に耽りたくて、操縦席で肘をつき、ずっと夜を眺めていた。
 だが、そんな俺の意識を現実に引き戻すようにアラートが鳴る。もうすぐ目的地へ着くという合図だ。
《――既定の領空に入りました。残り三十分程で目的地へ到着します》
 機械の合成音声に生返事を返しつつ、ずっと頬杖をしていた腕を伸ばす。背中を鳴らしながら大きく伸ばすと、身体にどっと血が巡り出した。
 指先をフロントガラスへ向け、バラバラに浮かんでいたディスプレイを一つに統合する。統合されて大きくなったそれを脇に避け、船の自動操縦を解除し、閉じたハンドルを引き出す。バーチャルパッドではなく物理ハンドルなのは、拘りというよりも俺自身の慣れの問題だ。
 ハンドルを引き、海面すれすれを飛んでいた機体を上向かせて上昇する。
 そうしてすぐに、ガラスの向こう。遠く、闇に浮かぶ光が見えた。
 少しずつ、水平線の彼方から縦に連なった光が姿を現す。最初は小さなものにしか見えなかった光は、近付くにつれて大きな塊となり、上空へと伸びるその全貌を露わにする。

 それは地殻に根を張り、天を穿つ巨大な“樹”。

 水平線から現れたのは、途方もない大きさの、樹としか言いようのないシルエット。
 勿論、こんなものが自然物である訳がない。これは大樹の形をした建造物だ。
 上半分は幾重にも枝分かれをし、先には葉でなくコロニーが枝垂れている。幹や枝と呼ぶべき部分は白く、青白い光が細い稲妻のように上へ下へと泳いでいた。
 そして樹の根元には、そこから放射線状に広がるように、二枚貝のような形のドームが幾つも建造されている。
 ドームは特殊なガラスで丸く守られていて、いつかどこかの土産物屋で見かけたスノードームという玩具を思い起こさせた。
 この樹の形をした塔とドームは人工物として考えるならとんでもなく巨大だ。飛空艇をちょっと上昇させたくらいでは全体図は見渡せない。樹は表面積だけでも一つのドームを優に超えているし、内部の通路やコロニーの範囲を含めたら相当な広さになる。
 ただ、これが人類の生息圏全てだと思うと、途端に酷く小さな箱庭に思えた。
 もう一度、窓の外を見る。
 夜と海はどこまでも広がっている。
 どこまでも、
 どこまでも――この世界には今、陸というものは存在しない。
 かつて多くの生態系が暮らしていた大地という土の塊は全て毒の海の中に沈み、人も動物も植物も、水の中では生きられない全てがこの『世械樹』と『グランシェル』で暮らしている。
 世械樹はこの果てしない毒の海を浄水するまで稼働し続ける環境浄化装置の塔であり、グランシェルはかつての緑ある大地を移植した仮初の都市。
 虫の息とも言える惑星(ほし)の上で、人類はしがみつくように何とか生きていた。
 この世界が浄化されて、風や水が正常に戻り、青の星が息を吹き返す時を夢見て。

「さて――」

 だが、そんな終末思想の神話のような歴史の中でも、大半の人間がやる事は有史上何も変わっちゃいない。

「――さっさと戻って、明日の仕事に備えて寝るとするか」