後篇

複雑な文様の描かれた長方形の小さな紙に
血の滲んだ親指を押し付ける。
紋様は鍵のかかった術式であり、人の血はそれを解除し
術を発動させる鍵だ。
血の付着した術札の紋様が淡く光り、術が発動する。
札から溢れ出た光は術者を包んで行く先を照らす。
光道、と呼ばれる術だ。
蝋燭よりもよほど持続時間が長いので広く使われている術式である。
親指に浮く血を舌で舐め取りながらデュエンは札を
懐にしまいこんだ。

日が完全に落ちて、雑踏の明かりから少し離れた薄暗い西門前。
事務所で偽造した通門許可証を退屈そうな兵士に見せると、
彼はちゃんと目を通す事もなく顎で「通れ」と示した。
へらへらと笑いながらデュエンは心の中だけでそっと苦笑いをする。
――こーゆーのも、見たらきっと怒るんだろうな。
来ていない新人の怒った顔を思い浮かべる。
まだ日が落ちて数分しか経っていない。いないのは当然だ。
彼女は来ないだろうと踏んで、一人で森へ出るつもりでいた。
コートの裏側に仕込んだ術札や小道具などを再度確認して
彼は西門をくぐって真っ暗闇の外へ出る。

アレンザが西門前に着くのは彼が闇の中へ姿を消した五分後だった。



アレンザは迷っていた。
就職した事務所が当たり前のように違法な行為をしていた。
それは自他共に認める「お堅い」自分には許しがたい事なのだが
だからといってデュエンが言った言葉全てを否定できない。

何処の国でもそうだが妖精の情報に関する規制はとても厳しい。
更に掴める情報も非常に限られているので、妖精とそれに伴う
情報には希少で価値が高い。
実際、研究局では情報の出し惜しみは当然であるし
情報量だの手続き料だのなんだのとやたら値段を上げてくる。
資金のない事務所は一年足らずで潰れてしまうのも珍しい事ではない。
確実に、早く。それはどんな仕事にも求められる事だ。
自分の失敗のせいで離れそうになっている顧客を繋ぎとめるには
早く満足の行く結果を提示しなければ。

事務所の為に違法をするのか。
法律の為に事務所を危機に晒すのか。
どちらも正しいようで、どちらも正しくないようでもある。

頭の中の天秤をふらふらと迷わせながらも
それでもアレンザの足は町の西門に向っていた。
町の外に出るのだからと一旦自宅に戻り、それから事務所に寄って
所長から必要なものを受け取った。
所長は苦笑しながらアレンザの頭を撫でて、見送ってくれた。

――どうして私は仕事に向っているんだろう。

彼らはアレンザが嫌いな「違法」をしているのに。
酒場を出てから事務所に行くまで彼女の隣には先輩も誰もいなかった。
兵士の詰め所へ行って告発する事はいくらだってできた。

――私はまだ就職して二週間の新人で、失敗までしている。
新人風情が仕事に口を出してはいけないんだ。

そう心の中で呟いていても、天秤の揺れは止まらない。
このまま仕事をしていいのだろうか?
彼らの罪を告発するのが正しいのだろうか?
私は、どうすればいいのだろうか――

「……門を通りたいのか?」
「あ……」

気が付けばいつの間にか西門に着いていた。
西門の手前で止まっていたアレンザへ門番である兵士が
不思議そうに声をかけてきた。
顔を上げると、門番の持つ槍の鋭い先が目に入った。
心臓が嫌な音を立てて不規則に脈打った。

「っ……」
「おい、そこのお前。聞いているのか?」
「え、えっと……」

普段の背筋が伸びて凛とした姿は何処へ行ったのかと思うほど
アレンザは縮むように足元を見て、怯えるように槍から目を離す。
さっと辺りを見回して来ている筈の先輩の姿を探したが
それは全く見当たらなかった。

「……ここをデュエンという方が通りませんでしたか?」
「ん? ああ、デュエンっつー男ならさっき西門を出て
 森の方へ行ったが?」
「えっ」

予想外の返答。
まさかもう行ってしまったなんて――来ないと思われて
いたのだろうか?
慌てて鞄に手を入れ所長から受け取った通門許可証を見せる。
兵士はぞんざいな目線で見ると「通れ」とだけ言った。
既に日は落ちた城壁の外で出ようだなどという人はそういない。
だが口を挟むのが面倒だと思ったのだろう、兵士はアレンザの見せた
通門許可証が偽造品だという事にも気付かず、彼女を通した。
許可証が偽造だという事にはアレンザも気付いていない。



人間がひしめいて生活する町の中では妖精は現れない。
大自然が思うがままに背を伸ばしている場所こそにそれらは
姿を現すのだから、妖精を捕らえるとなると必然的に
門を潜って人気のない外へ出なくてはならなかった。

人の営みがない外の世界はただただどこまでも木が生い茂って
続いているだけ。その中に国と国を繋ぐ商人達のための道が
作られてはいるものの、それはとても頼りなく思えた。
目を凝らしても見えるのは闇だけで、それなのに頭上は
お祭り騒ぎのように星々が瞬いている。
光道が作り出した光は闇を打ち払うというよりは
今にも闇に呑み込まれそうに見えた。
そんな静かな闇の中で、デュエンは確かな歩みで
目的地へ向っていた。

「あー……毎度思う事だけど
 話し相手が欲しくなるね、こんなに静かだと」

誰もいないのをいい事に独り言を構わず漏らしまくるデュエン。
あまり相性が良さそうとは言えない若い後輩のお小言すら
恋しくなってきてしまう森の夜。
寂しさを口にしながらデュエンの足は確かな歩みで
暗闇の中を突っ切っていく。
女神像というのは旅人の安全を祈願して建てられた物で、
西門を出て十分も歩けば着く場所にある。
そのすぐ傍の湖は妖精の出現場所である事は妖精関連に
精通しているものなら常識だ。

「そろそろかなっと……、ん?」

不意に第六感がデュエンの頭の中で警鐘を鳴らす。
長年培ってきた勘に従って懐にしまってあった札を取り出して
自らを包む光の加減を調節し、小さくしていく。
足元に気を付けながら傍の木に身を隠すように駆け寄り、
じっと耳を澄ます。
しばらくして前方の方からかすかに複数の足音が聞こえた。

まず、妖精を捕獲しに来た同業者というのが思い浮かんだが
デュエンの勘は未だ警戒を怠ろうとはしない。
彼は一呼吸すると息を殺し、草の上にも関わらず足音を完全に消して
走った。光道の光は既に手の平に収まるほどにまでになっている。
前が殆ど見えなくなっていてもデュエンは微妙な影の陰影で
道を見極めて足音がした方へ走る。
すぐに木々の隙間からデュエン以外の者が発する光道の光が見えた。
足を止め再び木の根元へ滑り込んで身を隠す。
首を出して光の方へ目を向けると、四人の人影が確認できた。

その内の三人がまだ若いが、鍛えられた体を持っているというのが
遠目からでも分かった。偵察員のような黒を基調とした服を着ている辺り
妖精研究所の研究員ではなさそうだ。
荒事専門のような雰囲気をまとう三人に警戒の色を強めて、
その三人に囲まれている小柄な人物を見極めようと目を細め――
それが見知った人物であるのに気付いた。

「……ロンドルの爺さん?」



デュエンが足音を追っていた頃、
アレンザは門を出て暗闇の中を一人で歩いていた。
息が詰まりそうな孤独感と静寂の中、所長からもらった地図を
何度も確認しながら慎重に歩く。
街の外へ出たのはこれが初めてではないが、
夜に出たのは初めてであり町の中との落差に訳もわからず
突き放されたような気分になった。
デュエンと同じく光道を使いながら歩を進める。

ここに来るまで正しい事だとか規則を守る事についてだとかに
頭を悩ませていたアレンザだったが、門の外へ出てからは
一刻も早くデュエンを見つけ出し、妖精を捕獲し町へ帰る事しか
考える事が出来なくなっていた。
余裕をじりじりと浸食されていく感覚を確かに覚えながら
とにかく誰かに、デュエンに会いたいと思う。
奇しくも――デュエンが思ったように、アレンザも相性はよいとは
言えない彼の飄々とした態度が恋しいと思っていた。
今、その彼が自分と同じ子の暗闇の中を一人で歩いているのだ。
妖精は月のある方が出現率が高いし、所長は外での仕事はしない。
もう一人の所員は広報であるし、必然的に妖精を採りに行くのは
デュエン一人となる。
彼は今までずっと、一人でこの闇の中を歩いていたのだろうか。
一人で行こうと思えるほど、慣れてしまっているのだろうか。

寂しさで死ぬ事が出来そうなこの静寂の中を。

「……デュエン先輩」

思わずその名前を呟いたのは尊敬の念からか、別の物か。

ふと光道の示す前方に立て看板が見えた。
道が二股になっており、西を指している看板の方に
「←旅の女神像 そなたの旅の安全を祈祷いたし」という言葉が
刻まれていた。
もう少し、と気合を入れ直し術札を握り締めた。



小柄で長い白髭を垂らし、遠くの東の話に出てくる「センニン」に
似た姿の老人は確かにコバット事務所の顧客、ロンドルであった。
先日のアレンザを同伴した妖精捕獲が彼女のミスで失敗に終わり、
今は腹を立て苛立ちを募らせながら町の中の研究室で待っている
はずのロンドルの姿を見て、デュエンは眉をひそめた。

依頼した仕事を失敗で返した事務所を見限り、別の事務所に
依頼でもしたのだろうか?
それはそれで焦る事態だが、その老人を取り囲む三人の雰囲気が
どうもただの同業者には思えない。
ロンドルがいて、そして女神像の傍の湖で何かを相談しているのは
妖精関連と看做して間違いないだろうが、
どうも雰囲気が穏やかではない。
あえて言うなら、悪人達が悪事の相談をしているのを
偶然目撃してしまったような気分をデュエンは感じていた。

「んっんー……厄介ごとの予感」

性質の悪い自らの偶然に苦笑しながらデュエンは顎鬚を撫でながら
どう出るかを考える。
このまま帰って兵士へ通報するのが最良か。
とりあえず何か荒事沙汰になっても三対一では分が悪い。
ここは一先ず退散して所長に報告をしようと
音を立てないよう足を踏み出そうとして、
視界の端にロンドル達とは違う光道の光が見えた。

新たな仲間だろうか、と考え目を凝らすと
特徴的な癖毛と深緑の目が見えた。
不安そうな表情が普段見ている“彼女”の凛としたものとは
かけ離れていた為に気付くのが遅れたが、
間違いなくそれは来ないだろうと高を括っていた
後輩である少女だった。

――マズイ!
全く予想外の事が起きてしまった事で判断に一瞬の遅れが生じ、
そしてその遅れが致命的となった。



「ロンドルさん?」

光道の術札が発する光が見え、てっきりデュエンだと思い
走って名前を呼ぼうとした時人違いに気付いた。
ここにいるとは思いもよらなかった人物が目の前にいる事に
アレンザは驚きを隠せないでいたが、それは向こうも同じだったらしい。
ロンドルと、黒い服をまとった隙のない雰囲気の三人の男は
驚いた顔でお互いを見て、何かひそひそと話し合う。
四人の放つ怪しい雰囲気に気付けないアレンザは
ただただ首を傾げた。
ロンドルが振り向いてアレンザへ辛辣な言葉を吐く。

「これはこれは、コバット事務所のお嬢さん。
 私の依頼を失敗した罰としてこんな真っ暗闇の中一人で
 放り出され、妖精を捕獲しに来たのですかな?」
「え、そ、それは……」

人を見つけた安心感で忘れかけていたが自分は彼の依頼を
失敗し、その結果がコレなのだと再確認する。
ロンドルの言葉が否定できなくて言葉を喉に詰まらせ、
黒服の三人は自分達の代わりに別で雇われた人なのだろうかと
考え、焦りが生じた。
アレンザが自分を囲む三人に対して何を思ったかを悟った
ロンドルは更に声を重ねる。

「ああ。この人達はお察しの通り貴方の代わりに雇った者です。
 今まで大事な顧客扱いをしてくれたものですから、弱小事務所に
 同情して契約を結び続けていましたが、確かな結果を出せないようでは
 他を頼るしかありませんな」

明らかな挑発だが、事実である為に反論が許されない。
何故ロンドルがここにいるかよりも、少しでも早くここを離脱する
算段をアレンザが考えていると――

「しかし長く世話になった事務所だ。
 最後に邪魔者の掃除くらいはしてあげましょう」

暗い声音で言われた台詞の意味を理解するよりも早く
黒服の三人の内一番細身の男が動いてアレンザの前に立塞がった。
驚いて一歩後退しそうになったアレンザの肩を押して、
男はアレンザを土の上に押し倒す。

「……ッ!?」

肺から空気が飛び出た。
息苦しくて咳き込んでいると、
嗄れているのに妙に威圧感のあるロンドルの声が聞こえた。

「貴方にも、あんな小さな事務所で働いているより
 ずっと給料のいい仕事を紹介して差し上げますよ」
「!」

自分の身に何が起ころうとしているのか悟った。
暴れて逃れようとするアレンザだが男の方はビクともしない。
そんな少女を小遣い稼ぎの道具と看做したロンドルは
値踏みをするように見つめていたが、やがてふっと視線を放し、
残り二人の黒服へ指示を出した。

「そろそろ妖精が出てくる頃でしょう。
 なるべく多く捕まえて下さいね。量が多い方がより高密度の
 妖精燃料ができますから」
「なっ……貴方は……!」

あっさりと犯罪予告をしたロンドル。
しかし声を荒げるアレンザには目もくれず、淡々と準備に
取り掛かっていた。

「ロンドルさん! 貴方のしている事は犯罪です!」
「それがどうかしましたか」

出来の悪い生徒を宥めるような口調で、
しかしその声音は何処までも冷酷だった。

「馬鹿正直に規律を守る者が痛い目に遭うのですよ」

「その考えにはちょっと共感」

突然湧いて出た声にアレンザを含めた五人が驚いて
それぞれの動作を止める。
隙を見せた黒服の一人に向って鋭い肘鉄が繰り出された。
綺麗にこめかみに入った衝撃に脳震盪を起こして
男は糸が切れたようにあっけなく膝から崩れる。
それを更にロンドルの方へ思い切りよく蹴り飛ばし、
反撃をしようとしていたもう一人の黒服の行動を封じた。

僅か数秒で手際よく一人を昏倒させたデュエンは
全員の視線を浴びながら不敵に笑っていた。

「でも馬鹿も馬鹿正直に痛い目に遭う訳じゃねえんですわ」
「せ、せ、せ……っ」

先輩、と悲鳴なのか歓喜なのか区別の付かない声で
アレンザが叫ぶ。
窮地の後輩に先輩は視線だけを送り、ロンドルと向き合う。

「さて、ロンドルの爺さん。
 裏で妖精燃料を製造し、その上可愛い後輩を売り飛ばそうってのは
 この国じゃあ死刑ではないけど吊られる位は覚悟した方がいいっすよ」

ロンドルとは別の方向で妙に威圧感のある声音で問い詰める。
老人は冷や汗を流しながら、それを悟られないよう平静を装う。

「例え兵士に通報したとしても証拠はないぞ」
「いやいや、証拠も揃ってないのに脅しなんか言いませんよ」

そう言ってデュエンが袖口から出した術札。
中心に円形の紋様が描かれてあり、他には装飾としての
やたら可愛らしい模様が描かれている。
血が付着しているので既に使用済みのようだが――
その装飾細やかな術札の正体を悟ったロンドルが驚愕の声で叫んだ。

「録音の術式……!」
「言質はバッチリですよ」

主に遠距離恋愛の恋人達が自らの声を届ける為に使う音声録音の恋文。
術札からはロンドルが先ほど漏らした犯罪内容が
ばっちりとロンドルの声で再生された。
顔を真っ赤にした老人がアレンザを抑えていた黒服を見て、

「ならばデュエン。人質と交換だ。
 可愛い後輩を売り飛ばされたくはないのだろう」

乱暴に起こされたアレンザの首に手がかかる。
それを見たデュエンは肩を竦め、また不敵な笑顔を浮かべる。

「仕方ないな」

札をくしゃりと丸めてロンドルの方へ投げる。
弧を描くように投げ出されたそれに皆の注目が集まり、
開いていた手に握り締めていた石をデュエンはアレンザを捕える
黒服の額に鈍い音を立てて当てた。
アレンザは怯んだ黒服から逃れようとするが、
気絶には至らなかった男が逃がすまいと手を伸ばしてくる。
アレンザはキッと深緑の目で男を見据え――
ためらいを吹っ切った思い切りの良さで男の弱点を蹴り上げた。
くぐもった嗚咽を漏らして男が堪らずその場に崩れる。

「ご、ごめんなさいっ」

思わず謝りながらもデュエンの方へ走る足は止めない。
見るとデュエンは心底おかしそうに笑っていた。

「あはは。アレンザちゃん、やるねー」

駆け寄ってきた後輩を守るように背後に隠す。
アレンザはその自分よりもずっと大きな背中に
初めて尊敬と頼りがいを感じて感動していたのだが――

湖が突如淡い光を帯び、その場の全員の目が奪われた。
淡い光は尾を引くように伸びて飛び交っている。

一つ、二つ、四つ、八つとその光はどんどん増えていく。
湖から湧くように出てくる光の群はあっという間に
広がって、くるくると踊るように光の尾を交わらせる。
アレンザが驚愕の声を上げた。

「妖精……こんな時間にこんなに沢山……!?」

「おお……妖精だ。
 は、早く捕まえろ! そこのお前は二人を縛り上げておけ!」

二人の黒服にそれぞれ指示を出して、
懐からビンを取り出したロンドルは妖精を捕まえに取り掛かる。
先ほどアレンザに蹴り上げられた黒服が早くも回復して
二人の前に立塞がる。
真剣な光を目に宿したデュエンが慎重に声を出す。

「アレンザちゃんは下がってて。
 俺がコイツを倒した隙に逃げ……」

言い終わらぬ内にデュエンの横を少女が横切る。
アレンザは一直線に妖精達を捕え始めたロンドルの方へ走った。

「ちょ、馬鹿、何して……ぅおっと!?」

数メートルあった距離を黒服は一瞬でゼロに返した。
間一髪で特殊警棒の横薙ぎをかわし、後ろに飛んで距離をとる。
先ほどのデュエンの動きを見て只者ではないと感じたのだろう。
黒服はこちらの出方を慎重に見るように構えていた。
デュエンの方も今の黒服の動きからして只の荒事師ではないと
判断して、下手な動きが取れなくなる。
懐から術札を取り出しつつ、アレンザの方へ目を向けると
彼女は今にもロンドルに噛み付きそうな勢いで止まりそうにない。
その後姿がムキになっているように見えた。



「させませんっ」

ロンドルが二つ目のビンの中に妖精を取り込んでいると
横から細い腕が伸びてそれを妨害した。
特に鍛えているわけでもない老人は少女の勢いに押されて
ビンを取り落とす。光の群れがふわりとビンから逃げていく。
もう一つのビンも奪い取り蓋を取ろうとした時、
背後から腕を捕まれて捻り上げられる。
アレンザは腕を振り上げてビンを地面へ叩きつけた。
場にそぐわぬ澄んだ音を立ててビンの破片が飛び散り、
またも光の群れが飛び去っていく。
湖に集まっていた妖精達は危機を感じたのか次々と
その姿を消していく。

絶好の機会を逃したロンドルは顔を茹で上がらせて
立ち上がろうとしたが、少女がポケットから素早く何かを
取り出したのを見て顔を赤から青へと目まぐるしく変化させた。
捻り上げられた腕が悲鳴を上げるのも構わずに暴れ、
糸切り歯で指を傷つけ血を滲ませる。
ポケットから取り出した術札に血を付着させ鍵を解除する。

「妖精たちを怖がらせるのは……許しません!」

確固たる信念を持った声。
瞬間、辺りに攻撃的な光の炸裂が巻き起こった。



「……!!」

デュエンも当然炸裂した光に巻き込まれ、
目の前が白く暗転し何も見えなくなる。
しかしそれで何もできずに動揺する程、彼の積んできた経験は
甘くはなかった。
同じく目が眩んでいるはずの対峙していた黒服の気配を読み、
そこに向って渾身の力を込めて拳を突き出した。

ゴキ――と鼻を潰した感触。
見えない視界のせいか妙に聴覚が働いて、相手が倒れる音を聴いた。
少しずつ正常な視覚が戻ってくる。
周囲に警戒を掃いつつ、まともに物が見えるまでに視覚が
戻ってはじめに見たのは、黒服の持っていたビンを開け
妖精たちを逃がしているアレンザの姿だった。

光の爆心地であったアレンザの周囲にいたロンドルと黒服は
こちらよりもダメージが深刻らしく、目が眩むのを通り越して
気を失っている。

妖精たちがロンドル達の魔の手から逃れ、空中で霧散するように
消えていくのを見届けたアレンザは心底安心したように
微笑んでいた。
静かに綻ぶようなその笑顔にデュエンの心が少しざわつく。
――なんだ。そんな顔、できるんじゃん。
元が可愛いだけに笑うとその魅力は折り紙つきだ。
だからこちらに気付いた彼女から笑顔が消え、気まずそうな顔を
したのには落胆を隠せなかった。
デュエンの落胆を別の意味で解釈したらしいアレンザが
慌てて口を動かす。

「あ、す、すみません、でした。勝手な行動を……」
「いーよいーよ。結果オーライって事でね、アレンザちゃん」

本当は確かに褒められた行動ではなかったが
ここで呑気に説教もしてる暇も無さそうなので水に流した。

「本当に迷惑ばかりをかけて申し訳ございません……。
 その、許せなくって、つい」
「そうだねぇ。随分必死だったね。妖精に思い入れがあるの?」
「……ええ、まあ」
「ま、今は話は後にして。こいつらをどうしようか。
 縛り上げて、町へ戻って兵士に運ばせるか――」

その時、アレンザの背後で倒れていたロンドルがむくりと
起き上がった。
何処にそんな力が残っていたのか、ビンの破片を掴み
血走った目でアレンザに狙いを定めて振り下ろした。
服を裂き、破片がアレンザの脇腹を突き刺さった。
ぐらり、とアレンザの体勢が崩れ脇腹からは血が噴出す。
派手な水飛沫を上げてアレンザの体が冷たい湖の中に突っ込んだ。

「――アレンザちゃん!」



鼻から思い切り冷え切った水が入り込み、苦しくて痛くて
涙が滲みそうになった。
零度に近い水は脇腹の刺し傷にも沁みて、悲鳴を上げても
それは泡となって音にもならず消えていった。
濁っているので視界が悪く、どちらが上なのか下なのか分からない。
――誰か……。
息苦しくて死がすぐ隣まで来ているのが分かる。
宛ても無く手を伸ばし――その手が淡い光に包まれたのを確かに見た。
光は分裂するように増えていき、やがて彼女の体全体を
包み込む。
息苦しさは続いていたが、心の中に暖かな安心感が生まれた。

――そう。ずっと前にも。
こうして、貴方達が助けてくれた。

水の中にいるのとは違う妙な浮遊感に包まれながら
体が上へと引っ張られていく。
限界が訪れ意識を手放す直前、
今度は確かな感触が――大きな手が自分の手を掴んだのを感じた。



ロンドルを昏倒させ、湖の中へ入ろうとすると
濁った水のそこから淡い光の群れが見えた。

「妖精……?」

儚い光の上に強い赤が滲む。
それが血だと理解した瞬間、デュエンは光の中心へ手を伸ばした。
冷たい水の中でほのかに温かな感触を得て、
一思いにそれを引っ張り上げる。
淡い光に守られるようにされたアレンザだった。
光――妖精たちは一目散に逃げるように彼女の体から散って
空中でその姿を霧散させて消えていく。

「まさか、妖精がこの子を助けた?」

信じられないような光景を目にして呆然としていたが、
冷たいアレンザの体にそんな暇はないと気付く。
見れば目は開いているものの焦点が合っておらず虚ろで、
唇も真っ青で、胸が上下していない。呼吸が止まっている。

「っ、起きろ! 目を覚ませ、アレンザ!!」

深刻に彼女の命の危機を感じ取り、名前を呼ぶが
彼女は意識を取り戻しそうにない。
呼び捨てにしている事に気付かないまま頬を強く叩き続け、
それでも反応を示さない。流血が止まっていないので、
どんどん体温が奪われていくばかりだった。

「アレンザ! ……くそっ」

一瞬の躊躇の後、命には代えられぬと最後の手段に手を出す。
彼女の服を緩め、顎を上げさせて気道を確保する。
胸に両手を重ねて何度も強く押し――彼女の冷えた唇に
自らの唇をあてがい酸素を送り込んだ。



「くしゅんっ」

可愛らしいクシャミが響くコバット事務所の三階の所員室。
簡易ベッドの上に寝かされたアレンザが意識を取り戻したのは、
ロンドルのあの事件から半日経った時だった。
湖に落ちてしまった彼女はそのまま風邪を引いてしまい、
一人暮らしだという事で事務所の皆で看病する事になった。
彼女は、これ以上迷惑は掛けられないと断ろうとしたが
風邪は症状が重く部屋を出るのにも精一杯な為、渋々承諾した。

目を覚ましてから二日後。
大分風邪も治りかけ、彼女が暇を持て余していると
ノックの音が聞こえた。
どうぞと声をかけ、扉の向こうから現れたのは
相変わらず茶髪をぞんざいに整えて、無頓着な格好をした
デュエンだった。顎の無精髭が少し伸びている。

「よっ。調子はどう?」
「はい。お陰様で、夕方には自宅へ戻る予定です」
「やだなぁ、お陰様って俺は何もしてないよ」
「いえ。気を失った私を運んでくださったのはデュエン先輩です。
 本当に……私はどこまで迷惑をかければ気が済むんでしょう」
「そう僻まない。可愛い後輩なんだから、面倒見るのは当然っしょ?」
「……ありがとうございます」

お見舞い、とデュエンは持って来た林檎を果物ナイフで
器用に切り分け、ウサギの形に仕上げた。

「ああ、そうそう。ロンドルの爺さんとあの黒服野郎だけどね、
 俺がちゃんと兵士に引き渡しておいた」
「そう、ですか。一件落着……でいいんでしょうか」
「俺らには何の報酬もなかったけどねー」

笑いながら林檎ウサギに更に細かな装飾を加えていくデュエン。
その手際のいい手元を見ながら、
アレンザは零すように話し出した。

「デュエン先輩。私は妖精を助けたくてこの事務所に入ったのです」
「ん? ああ、志望動機にそんなことが書いてあったね」
「それは……昔、妖精に助けてもらった事があったからなんです」
「……へえ?」

興味をそそられたように手を止めて、アレンザの方へ向き直って
話を聞く体制に入る。

「幼い頃は壁の外の、小さな集落に住んでました。
 ある日私が森の中で迷子になって途方に暮れていたときに……
 光の群れが帰り道を示してくれた事がありました。
 あの時の事は正直よく覚えていないんです。夢中で妖精を追いかけていたら
 いつの間にか家が目の前にあって……」

あのまま森を彷徨っていたら猛獣の餌になっていたかもしれない。
大きくなってから事の重大さに気付き、そしてそんな自分を
助けてくれた妖精を今度は助けてあげたいと思うようになった。

「そっか。じゃあご両親も君がこんなに立派になって
 さぞかし喜んでいるんだろうね」
「両親はいません。異教徒だった集落の皆は兵士に殺されました」

あまりにもあっさりと言われたので、
数秒の間言葉の意味を理解し損ねた。
アレンザの顔には悲しげな表情は一切浮かんでおらず、
逆にそれが感情を押し殺しているのを示唆していた。
デュエンは彼女の小さな頭を撫でて、一言だけ。

「そうか。頑張ったね」

大きな手で撫でられ、自分の物とは違う体臭を間近で感じ
アレンザは思わず涙ぐみそうになった。
それを堪えて、彼女は気丈に答える。

「いえ。まだまだ精進します」
「たまには肩の力抜いた方がいいぞ?
 あ、ほら。林檎、遠慮なく食べて」
「……いただきます」

無駄に細部まで拘った林檎ウサギを一つ摘んで口に運ぶ。
思った以上に重い過去を持った健気な彼女の姿を何と無しに
見つめ――林檎を含む唇を見た瞬間、
思い出さないようにしていた事を思い出してしまった。
動揺して、皿を取り落としそうになる。

「デュエン先輩?」
「あ、ああ。何でもない何でもない」

アハハハハ、と妙に乾いた笑い声を大袈裟に表現しながら
デュエンは流れに任せて訊いてみる。

「ところでアレンザちゃんってさー、
 カレシとかいるの? ファーストキスはとっくに経験済み?」

なるべく普段のセクハラ発言と思われるように
ひょうきんな調子で聞く。
案の定、彼女は顔を真っ赤にして怒ったように言う。

「なっ、何を聞いているんですか!?
 恋人なんていませんし、キスだってした事ないですよ!」

――おいおいおいおい。
マジ? マジかよ。マジで!?
内心の激しい動揺を悟られないように
デュエンは視線を逸らしつつ、

「あらら、若い乙女がキスもまだなのかい? 本当に?」
「そうですよ。妖精は清らかで潔白な人間の前でしか
 姿を現さないと言われているのです。
 だから妖精達に会うに値する人間であるように私は今日まで
 最大限努めてきたのです」

胸を張って主張するアレンザとは対照的に
デュエンの心はどん底へ突き落とされていく。

――うっわぁぁぁぁ。
  乙女のファーストを俺のようなおっさんが……って、
  ……これはもう犯罪なんじゃないのか!?

そんなデュエンの苦悶を知る由もないアレンザは
無防備にも顔を近付けて「だからです」と言葉を続ける。

「私が必要以上に規則を守るのはそういう理由からなのです」
「は、はい。分かりましたごめんなさい」
「? 何故謝るのですか?」
「いえいえ深い意味なんてこれっぽちも御座いません!」

ついつい視線は彼女の薄桃色の唇を追ってしまう。
とにかく彼女には事実を伝えないでおこうと誓った。

己と相手の年齢を考えてもありえない、と思いつつも
それに反して心臓はやたらうるさく高鳴る。
しばらくはこれに悩まされそうだとデュエンは自分の未来を見た気がした。

[後日談へ]