幕間2/君影璃樹

君影璃樹は世間一般に見れば、常に女性の部屋に入り浸り、
女性から生活資金を貰っているようなヒモである。
その認識は間違ってはいないが、
彼は女性が好きで女性をオトしているのではない。
彼にとって女性は“泊まる場所を提供する人”であり、
つまりは便利なものという認識をしている。

彼が愛しているのは得意な能力ゆえに意思疎通が可能な
カラス達だけだ。
風に混じる匂いを嗅ぐように、璃樹にはカラス達の
考えが、気持ちが分かる。
そこに偽りは存在しない。
だから素直にこちらからも偽りのない本心を伝える事が出来る。
複雑過ぎてよく分からない人間は
気持ちの悪いものだった。

璃樹は誰も心の底から信じてはいないし、
誰も愛してなどいなかった。

そんな彼が夜な夜な繁華街を歩き続ける理由を
知っている者は、彼自身を含めて誰もいない。

   × × ×

小さな男の子が何処かの豪邸の庭らしき場所の片隅で、
必死に声を押し殺しながら泣いていた。

小さな肩が細かく震え、時折大きく跳ね上がる。
声を出さないように唇を噛み、強く噛みすぎて血が滲む。
それが痛くて、少年をより情けない気分にさせ、
更に涙が溢れて喉から出ようとする声も大きくなった。
涙と鼻水、そして血で高そうな少年の服の襟元は
ぐちゃぐちゃに汚れてしまっていた。
ひっひっ、と千切れたような空気の音を口から漏らし
もうどれくらい泣き続けたのか分からなくなった頃――

「璃樹」

空からゆっくりと落ちてきたような優しい女性の声。
今一番聞きたくて、今一番聞きたくなかった声。
少年――当時七歳の璃樹が顔を上げると、
広い庭の向こうから白いワンピースの女性が
自分の方へ走っている所だった。
母親だ。

慌てて逃げようと思って立ち上がったが、
かなりの時間泣き続けていたせいで体がくたくたで
上手く立ち上がれない。
またそれが情けなくて涙が溢れてくる。
そうしている内に母は璃樹の元へ着いていた。
彼女は異常なまでに細い腕を伸ばし、璃樹の背中に回した。
幼い璃樹の体は細い母の腕の中にすっぽりと収まる。

ふわっと、ワンピースと母から洗い立てのような
清らかで安心する香りが立ち上った。

「どうして一人で泣くの?」

耳から優しく入り込んでくる声に、
璃樹は自分に対する嫌悪感を膨張させた。

「だ、だって……」

泣き過ぎてひりひり痛む喉。

――情けない。
自分はなんて情けない人間なのだろう。

母は璃樹の背中を擦りながら、
服が汚れる事も構わずに強く我が子を抱きしめた。

「ぼくが変だから……ママが苛められるんだ」

璃樹の母親は好きでこの家に嫁いで来たわけではない。
両親の両親が互いの利益の為に結婚させられて、
愛も生まれぬままに二人の子供を産ませられた。

母の実家は“それほどでもない”会社の社長の家である上に、
数年前にその社長――璃樹にとって母方の
祖父が不祥事を起こした。
幼かった璃樹は覚えていないが、どうやら金の方で不正を
働いたようだった。
会社は潰れ、祖父母は娘の結婚相手に金をせびる。
そんな愚かな人間の娘として母は父の親類達から虐げられていた。

それだけではない。
息子の璃樹が度々カラスと会話している、という奇行が
周りにバレて周囲の母を見る目はどんどん軽蔑を含む。
勿論、当人である璃樹にもそれは及んだ。
璃樹には兄がいたが、そちらは異母兄弟なので
兄はより優秀で純粋な人材として周囲に甘やかされていく。

元来体が病弱で気も弱い母には辛い現状。
幼い璃樹には耐え難い現状。
家に二人の居場所はなかった。

大企業会長の次男。
優秀な兄に万が一の事があった時の為に生まれてきた自分。
そのくせ、何もできない自分。


気味の悪い子。
カラスなんかと遊んで。
あの女の子供だから。


「璃樹」

肩を掴まれて引き離される。
驚いて見開いた目に、母の真摯な顔が映った。

「璃樹はちっとも変なんかじゃないわ。
 カラスがお友達なんて素敵じゃないの。
 だから、そのお友達に酷い事をしちゃ駄目よ」

体が震えた。
恐る恐る後ろをふり返る。

璃樹が泣いていた場所の後ろには、
木々の間に隠されるようにして四羽のカラスの死体があった。

お前らのせいだ。
お前らのせいだ。
そう思って、罠にかけて、捕まえて、殺した。
カラス達の顔に父や兄や叔母等の顔を思い浮かべながら殺した。
璃樹の足元はカラスから吹き出た血で塗れていた。

「……ごめ、な、なさ……」

ガクガクとわななく口から必死に謝罪の言葉を紡ごうとする。
するとまた、強く強く抱きしめられた。

「璃樹。一人で泣かないで。
 泣きたくなったら、私の所へ来て、一緒に泣かせて頂戴ね」

その言葉を聞いて、泣いた。
初めて母のいる前で、大声を出してみっともなく泣いた。

   × × ×

「――、…………」

目を覚ますとそこは病的に白い天井の下。
オレが寝転がっているのは黄色い簡素なソファ。
ゆっくりと起き上がるように頭の回転が始まって、
ここが動物病院である事を思い出した。
寝ちまったのか、オレ。

「……あー……」

思い出す。
昨夜、ふざけた野郎に襲われてる染井を助けてやったら
メガイラが怪我させられて
社長の説教振り切って大急ぎでここに駆け込んだんだ。
カラスを持ち込んだ事には最初は驚かれたが
医師はしっかりとメガイラの治療をしてくれた。
それでも心配で、ここに居座り続けたんだったっけか。

ああ、くそ。
助けなきゃよかった。あんな奴。
どうせすぐ泣き言吐いて桜橋の所から出て行くんだろうし。
まあ……随分とヤバそうな影を使ってはいたが。

立ち上がり背伸びをして、誰もいないのをいい事に
その場で簡単に体操をしてメガイラのいる
病室へ向った。
沢山あるケースの中に、黒い体に真っ白な包帯を巻かれた
胸が静かに上下している。ヤマは越えたらしい。
せっかく静かに眠っているので起こす事はしないで
そのままそっと病院から出て行った。

久しぶりに早朝の世界を見る。
鬱陶しいほど清々しい太陽の光が真っ直ぐに突き刺さり、
オレの不快指数を上げていく。

大型の動物病院にメガイラを連れて行ったのはいいが、
金がない。女からまた貰おう。
そんな事を考えていると頭上から羽ばたく音が聞こえた。
音はすぐ近くの電線に止まり、オレを見下ろす。
大きなカラス――アレクトとティシポネーだった。

「よう。……随分と早いお目覚めだな。
 メガイラが心配なのか」

声を掛けると、風に乗ってカラスの意思が伝わってきた。
言葉では理解できないが、胸の中に確かに伝わる。
どうやらずっと起きてて、病院からオレが出てくるのを
待っていたらしい。

「そっか。悪かったな。  メガイラなら平気だ。ただ、飛ぶ力が弱く
 なってるかもしんねーから、お前らしっかりアイツを
 守ってやってくれな。
 じゃ、眠いだろ。帰って寝ろ。オレは平気だから」

頷き合うと二匹は飛んでいく。
早朝の眩しい青空に黒い点が流れるように飛んでいった。

「さぁて、と」

メガイラの為に資金集めだ。
携帯電話を取り出して、誰になんと言って金を貰うか
考える。
考える。
何かを考える事にする。
今日見た夢の事は考えないようにする。

それでも考えたくない事ほど考えてしまって――

カラスの血。死体。
八つ当たり。
何もできない。みっともなく泣いた。
母のぬくもり。優しい言葉。
いいにおい。背中を擦る手。優しさ。
人生で唯一のオレだけの優しさ。
強く強く抱きしめられる。
息苦しいほど抱きしめられる。
四年に死んだ母。
元来体が弱かった。けどそれだけじゃない、きっと。
無念。もう少しで一緒に家から出て行けると思っていたのに。
悔恨。何もできない自分。間に合わなかった自分。
家を出る決心。一人で生きていく事にした。
カラスだけ。
信じられるもの。
母のいない世の中。
虚しさ。

「殺してほしかったなあ……」

あの日。
強く強く息苦しいほど抱きしめられた。

あのまま、窒息死してしまいたかった。

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