幕間3 田菜赤音(もしくは黒音) ~ESCAPE

幼い少女は、初めの頃は逃げたいと思っていた。
家庭に安全な場所はなく、
学校にも安心できる場所は何処にもなかった。
外にいても誰かが悪意を持って自分に襲い掛かってくるようで
心が休まるときなどなかった。
誰からも優しくされたことがない幼い少女は
次第に人間そのものに嫌悪を抱いていく。

初めは逃げたいと思っていた。
しかし彼女は何処に逃げればいいのか分からない事に気付いた。
少女がもう少し大人だったらその場から逃げる事は
可能であったかもしれない。
だが現状から逃げるには少女は幼すぎた。
己の知っている小さな世界から逃げ出す事さえできない。
彼女に出来たのは憎み、拒絶する事だけだった。

殴る父、罵る母、陰湿なクラスメイト、
避ける教師、軽蔑を向ける近所の人々。
谷底のような彼女の狭い世界を構成する周りの人間全てを
彼女は拒絶した。
世界そのものを恨んだ事はなかった。
自分の運命を恨んだ事もなかった。
少女はただ苦痛のみを与えてくる人間だけを恨んでいた。

消えてしまえばいいのに。
わたしに近寄らないで。

幼い少女の世界は狭かったが、しかし彼女にとっては
その世界こそが全てであった。
いつまでも寒く光の差さない暗い谷底のような世界。
毎秒ごとに募っていく少女の思い。
その思いは幼い体一つに収まるにはあまりにも
膨張しすぎていた。
やがてその拒絶の思いが限界に達し、爆ぜた瞬間――

彼女の中で、爆ぜた部分が集合して何かが生まれた。

× × ×

日が落ちかける、誰もいない公園。
そこにある象の形をした滑り台の中は空洞で中に入って
遊ぶ事が出来る。
落書きが書き尽されたその狭い空間で赤音は
膝を抱えて小さくなっていた。
生まれてから一度も切った事のない黒々とした髪の毛は
土の地面の上でとぐろを巻いている。
髪の中に埋もれるような白くて小さな体は
不健康に痩せ過ぎていて骨が浮いていた。
暗い空洞には切り取られたように半球型の陽光の光が
差し込んでいて、時間が経つにつれてそれも
少しずつ消えようとしていた。

あまりにも人気が無さ過ぎる公園。
そこに誰かが侵入したのを感じ取って、彼女は緩慢な動きで
のそのそと顔を上げる。
平安時代の美少女のような顔に収められた小さな目が
ある男の姿を捉えた。

「どうして……」

驚いたように、乾いた唇からそんな言葉が漏れる。
空洞の入り口から、だらしない感じの四十過ぎであろう男が
顔を覗かせ、赤音を見て笑っていた。
探し物をやっと見付けた子供のように。

「やあ、プリティちゃん。俺、茸宮辰三。
 貴方のお名前なんていうの?」

おどけながら歌うように男は馴れ馴れしく話しかけてきた。
赤音はつれた悲鳴をあげて、狭い空間の奥まで下がる。
赤音は人間が嫌いだ。見ていて気持ち悪いとさえ思える。
人を見る度に腕が足が口が、自分へ危害を加えてくるのでは
ないかという妄想に捕らわれて直視が出来ない。
予測など出来やしない他人の動き。
腕が動く度に殴られる気がしてならなかった。

「う、うう……」

完全に怯えている赤音の反応に男は困った顔をして
右手で顎の無精ヒゲをぽりぽりと掻いた。
じっくり考える時間が空き、辰三は言った。

「ここら辺に人払いの結界を張ってんのは君だよね?」
「け、けっか……けっかい?」

突然出てきた知らない単語を確かめるように呟く。
赤音は漫画やゲームは触れた事さえないので「結界」という
単語が全く理解できなかった。

「あー、こりゃ無自覚っぽいわ……。
 えっとね……君、さっきから自分の周りに
 人がいないのに気付いてる?」

その台詞に赤音は息を呑んだ。
自分の周りに人が全く寄り付かなくなっているのは気付いていた。
それも『さっきから』なんてものではなく――昨夜から。

昨夜、いつものように赤音を叩いて来た父親が
突然何かに取り憑かれたかのように動きを止め、彼女に背を向け
それからは赤音に見向きをしなくなった。
それは母親も同じで、二人とも赤音を無視しているというよりは
まるで存在自体に気付いていないような素振りだった。
契機とばかりに赤音は家を抜け出し――自分が何処に
向かえばいいのかさえ分からない事に気付き、
人気のないこの公園の、象の滑り台の中に入った。
そのまま朝になり、両親が自分を鬼の形相で探しているのではと
考え、怖くて出られなくなってしまった。
両親でなくとも誰かが公園に来て、ここを覗いたらどうしよう。
そんな不安を抱いてずっと縮こまって、
誰も来ないようにと願い続けていた。

そして――誰かがこの滑り台の空洞に来るどころか、
誰も公園に近寄ってすら来ない事に気付いた。
思えば、昨夜両親の一件から誰の姿も見ていないし、
声も聞いていない。

自分が知らない間に人類が滅んだんだろうか――
暗い幻想を抱き、同時に飲まず食わずの自分の体が
衰弱しているのを感じていた。

ここから出なければ、でも外に人がいると思うと
怖くて出られない。
木から降りられなくなった猫のように今の今まで
一人どうしようもない被害妄想に怯えていた。

そこにこの辰三とかいう男が現れたのである。

「結界を張ってる事にも気付いてない、か。
 生まれたばっかって感じだしなぁ」

辰三は値踏みするように無遠慮な視線を赤音の体に向ける。
赤音は吐きそうになるのに耐えていた。

「一人では身に余る感情が独立したのか……今時珍しいねえ。
 閉鎖的な時代にはよくあったって聞いたけど、現代じゃ
 全く聞かない。こりゃ、興味深い」

よく分からない事をブツブツと呟きながら、
よいしょ、という掛け声と共に狭い空洞の中に入ってきた。
赤音は思わず悲鳴を上げた。

「なによ、そんなに怖がらなくたっていいじゃないかよー」

辰三の拗ねたような顔は、すぐに無邪気なものに変わる。

「プリティちゃん。おっさんといい事しようか?」
「い、いい事?」

誰かが聞き咎めたら絶対に言い訳の効かない事を言う辰三。
しかし幸か不幸か、聞き咎める人はおらず、学校ではロクに
授業を聞いていない為、常識が足りない所があった。

「そ。俺についてきてくれたらもれなく――
 この世界から連れ出してあげましょう!」

急に意気込んで、舞台に立つ役者のような大袈裟さで
辰三は腕を広げる。

「俺の夢はこの世界の法則が存在しない、
 全くの別の法則が働く異形の、所謂ファンタジーな世界へ
 行く事だ! そこには予想外の概念、生命、形状があって
 ――そしてきっと、人間はいないだろうね」

人間はいない。
その魅力的にフレーズに赤音は反応した。
人のいない世界……。

「そんな場所、あるの?」

吐き気が少し収まり、躊躇いがちに疑問を投げかける。
一挙一動に注目する警戒心は緩んではいないが、
自分から声をかけてきた赤音に男はニッコリと笑う。

「あるさ。現実には異世界と繋がって法則や物質が漏れて、
 不可思議な事が起きている場所が多くある。
 宇宙外の、全く別の概念の世界はある。
 俺はそこに行きたいんだけど、生憎邪魔者が多くてねぇ。
 その邪魔者を退く為に、お嬢ちゃんは使えるんだよ。
 そう。俺には君が必要なんだベイベー!」

上がりつつあるテンションに自ら振り回される勢いで、
辰三は赤音へ手を差し出した。
腕を出す動きで赤音は反射的に身構えてしまったが、
それは予想外の動きをして赤音の頭に優しく乗せられた。
そのまま髪の毛を混ぜるように手を回す。
乾いていて手入れも何もされていない彼女の長い髪は
ゴワゴワとしていた。

胸が高鳴る。
腕をこんな風に使う人を、赤音は初めて見た。

「プリティちゃん、俺に一緒に来ない?」

優しさなど微塵も知らずにいた赤音は、
何故頭を撫でられただけでこんなに暖かいような気がするのか
分からなかった。
分からなかったが、いつの間にか吐き気は収まっている。
震えもなく、この人が嫌だという気も、しなくなった。

この人だけが、自分を傷付けない。
優しくされた事のない少女は辰三のほんの少しの優しい厚意に
いとも容易く篭絡された。
幸せな錯覚に陥りながら、赤音は辰三の手を取る。

少女の中に生まれた別人格――後に黒音と名付けられる怪異しか
辰三は必要としていない事に何も気付かぬまま。
赤音は今日も自分は幸せに向っているという錯覚の中で生きている。

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