序幕/染井由乃 ~on border

黒かった。
目の前にあるもの、その全てが黒かった。

黒いドレスの見知らぬ人。
黒い鎖鎌。
黒い廊下。
黒い犬。
そして黒い冬服のセーラー服を着たあたし。

あたしは腰を抜かしてその場にへたり込んでいた。
犬は警戒するように黒ドレスから視線を外さない。
黒ドレスの顔は暗くてよく見えなかったが、赤い唇の
両端が吊りあがっているので笑っているのは分かった。
一面黒いペンキで塗りたくった異様な廊下は
何処もかしこも禍々しい雰囲気を醸し出している。
ちゃり、と黒ドレスが持っている鎖鎌の鎖が触れ合う音がした。

「……ひっ……」

引きつった声が出た。
更に、ちゃり、という音が幾重にも重なり、
黒ドレスが凶器を構えたのが分かった。

一緒に来ていた友人達はこの人を見た途端、悲鳴を上げて逃げた。
酷いとは思っていない。本当に恐怖が限界に達したのだろうから、
あたしは友人達を責める気にはない。
今日は中学校の卒業式で、皆ちょっと浮かれ気分だったんだし。
そもそも、あたしにとってこんな
黒く塗り潰されているだけの部屋など怖くはない。
黒い事で醸される不気味さも、大して怖くはなかった。
ここが『ヤバイ』場所だとは分かっていたけど、
その程度の事は慣れきっていた。

でも、あたしは今、心の底から震えていた。
この黒ドレスが、怖い。
あたしとこの人は、多分同じような人間だ。
だから、分かる。

こいつは、ヤバイ。

犬はあたしを守るように立っている。
それはいつもなら頼もしい限りだが、今だけは頼りなく感じた。
犬を見て、黒ドレスは感心したように呟いた。

「お前の“狗”か? 見た事ないタイプだな……。
 ガーゴイル? ブラックドッグ? ケルベロス?」

その声が意外にも低い声で驚いた。
……男?

「ま、こっちじゃイレギュラーが普通だもんな。
 ……この狗を使って幽霊騒ぎとかをハンター気取りで
 鎮めてきたのか? そりゃ、危険なお遊びだ」

じゃら、と音がして――

「動くなよ」

鎌が、こちらへ――

二度と開かない事を覚悟して目を閉じた。
金属が擦れ合う音と風を切る音。
それは真っ直ぐにあたしの横を通り過ぎて、

後ろにいた白い人影の心臓部分に突き刺さった。

「……っ!」
「神格を得る為の儀式をして、失敗した馬鹿の霊魂だ。
 まあ、魂の残りカスになっても人型を保ってる、その根性は
 三回だけ拍手をしてやってもいいな」

さらりと黒ドレスは言う。
あたしの横を通り過ぎて、黒い犬がその白い人影に
噛み付いた。
影はしばらく悶えるように暴れていたが、
やがて犬に全てを喰い尽されて消滅した。

「喰ったもんを消滅させる能力があるのか。苛烈だな」

鎖鎌を手元に戻して、黒ドレスはこちらに近寄ってきた。
あたしを助けてくれたんだとは思うけど……それでも、
先刻の恐怖はまだ残っていてあたしは逃げる事はおろか、
立ち上がる事さえ出来なかった。

「あ……ぁ、あ……」
「そんなに怯えんなよ。何気にショックだろうが」

黒ドレスはあたしの前にしゃがんで
子供相手にするように目の高さを合わせた。
その顔を見て、あたしは驚いた。
凄く、綺麗な顔だったのだ。

顔に乗っているパーツは極上品で、配置も絶妙だ。
目だけが尖った氷のように鋭かったが、
その冷たい印象さえも美しさに変えていた。
世界三大美女も唖然とするその美貌は、性別の判断が付きにくい。
着ている物は女物の黒い喪服のようなドレスだが、
仕草は丸っきり男のそれである。声なんかまるでマダム殺しだ。

しばらく相手の顔を見て呆然とした後、
あたしは何処か引っ掛かる物を感じた。
何に引っ掛かったのか、それを確かめる前の黒ドレスは
立ち上がった。

「さて、こんな気味の悪い場所にいつまでもいたくねえな。
 感染されちまうかもしんねーし。行くぞ、由乃(よしの)」

名前を呼ばれたという衝撃が稲妻のように駆け巡る。
黒ドレスはスカートを整えて足早に歩き出す。

「ま、待った! どうしてあたしの名前を……!?」
「え?」

奇妙な沈黙。
黒い廊下に何か重くて湿った物が圧し掛かってきたみたい。
いつのまにかあたしの黒い犬も、相手の鎖鎌も消えていた。
耐え切れなくなって、先に口を開いた。

「……何処かで会った事、ありましたっけ?」
「ん? あー……あるっちゃ、あるけど。
 でもお前の場合は記憶にないだろ。
 写真で見た事ないか? 俺の顔」

写真? これだけ綺麗な人なんだからテレビとかで
見かけていてもおかしくはないだろうけど……。

…………あ。

あたしの頭の中に、ある風景が浮かび上がった。
家。リビング。本棚。青い表紙のアルバム。
笑顔で高校生時代の写真を指差す母。
そこに映る、制服を着た若い母と学ランを来た男子生徒。
凄く綺麗な顔をした少年。学ランがあまり似合ってなかった。

――これが由乃のお父さんなのよ。

「……うそ」

腰が抜けていたのがまるでなかったように、
あたしは勢いよく立ち上がり黒ドレスに歩み寄った。
その顔を見上げてまじまじと見つめる。
……間違いなかった。

まさかまさかまさかまさか――

「――お父さん!?」
「ビンゴ。十五年ぶりだな!」

ケラケラと笑いながら肩を叩いてくる黒ドレス
――もとい、父親。

「いやぁ、お前が黒い狗を連れてる、なんて事を
 蜜(みつ)から聞いてな。
 まさかと思って来てみたんだが――ビンゴ、大ビンゴ!」

母親の名前を親しそうに言いながら、
まだ上手く立ち上がれてなく、膝が震えている
あたしの脇に手を入れて軽々と持ち上げて見せた。

「でっかくなったなー。お父さんは嬉しいぜ。
 最後に会ったときゃあ、
 まだお前がふにゃふにゃだったもんなぁ」

それって、つまり生まれたて?

「な、ちょっ! 降ろして……くださいっ」
「あ、それでな由乃」

あたしの抗議は無視して、お父さんは笑顔のまま言う。

「お前、不可思議現象を知っている上に
あんな狗まで操ってるのを確認したから、
俺んちで預かる事になった。蜜も了承済みだからな」
「――は?」
「ここまで来ちゃってんだから、もう不可思議な事とは無縁に
 過ごすなんて事は出来ねーぞ。
 ――だから俺が生き方を教えてやる。
 今日で中学卒業と同時に、今までの日常からも卒業だ」

そのままあたしは米俵のように担がれて、
黒で塗り潰されたビルを出た。

いきなり突きつけられた情報が重過ぎて、
黒いドレスの背中を見ながら整理する。
結局全てが落ち着くまでにこれから一週間を要する事になり、
その一週間が終わっても、また次の衝撃が待っていた。

まだこの担がれている時点では何一つ分かっていなかった。
ただ、確かにあたしは聞いた。
今までの日常が、尽く、完膚なきまでに、崩壊する音が。

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