第1幕/02

学校には何とか間に合い、その日も由乃は
つつがなく学校を終えた。
他の生徒はまだ学校に馴染めず常に緊張しているようだが、
由乃は既に慣れた――というよりは、
進学したという以外は特に感想を持っていなかった。

指定の制服である濃い灰色のブレザーが校門に溢れている。
その中に混じって由乃はこれからの予定を考えた。
六時に駅まで来い、とは言われたが今はまだ三時半であり
約束の時間までは二時間以上もあった。
とりあえず家に帰って宿題でもやっていようと決めた。

学校から三つ目の駅で乗り換えて、更に七つ目の駅。
四十分ほどの時間をかけて
前方に薄茶色――ミルクチョコレート色のマンションが
見えてくる。
マンションは傾きかけた太陽の光を浴びて
かなり美味しそうな色をしていた。

「染井由乃だな」

マンションのエントランスで、突然名前を呼ばれた。
声をした方向を見るとソファに身を深く沈めて
由乃を見ている青年がいた。
耽美系の美形でよれた感じのワイシャツにダメージジーパン。
ピアスをしていて腕や首にもアクセサリーが付いている。
いかにもチャラい雰囲気をまとった青年だった。
少し顔をしかめながら由乃は立ち止まった。

「……そうですけど、何ですか」

青年はチョイチョイと手招きをした。
むっとしたが、仕方なくソファまで歩み寄ると青年はじっと
由乃の顔を見る。

「何か用ですか。というよりどちら様ですか」

湿った手にベタベタと触られるような不快感を覚えて
由乃はすっぱりと言い放った。

「五〇七号室の君影璃樹(きみかげ りき)。
 オレは、あんたの先輩に当たるどちらさんだよ」

ジロ、と一際強く睨み付けて君影璃樹と名乗った青年が
ソファから立ち上がる。
由乃はその名前を聞いて、少なからず驚いた。知っている名前だ。
このマンションの住人で、紋胤が所属する会社に
同じく所属している人物だ。
由乃は、その会社にアルバイトとして所属している。
挨拶に行こうと思いながらも、肝心の彼がいつも部屋に
いないので諦めていたのだ。

思い切り嫌悪感を出してしまった事を後悔しつつ、
しかしその後悔もずっと睨みつけてくる璃樹を見てすぐに消えた。

「失礼しました。初めまして、君影さん」
「苗字、嫌いなんだよ」
「じゃあ、璃樹さんで」
「随分と遅い挨拶だよな?」
「……璃樹さんがいつも部屋にいないもので。
 何をしているんですか?」

相手のプライベートに深入りするのは普段の由乃では
絶対にしない事だが、璃樹の嫌な顔が見たさで
思い切って聞いてみた。ここら辺、紋胤の血が
確かに混じっているのかもしれない。

「別に。ただ、女の所で寝泊りしていただけだけど?」
「…………」

ヒモ、という言葉が浮かんだが
さすがに口にはしなかった。

「お前が桜橋の子供かぁ。ふーん……」

頭の天辺から靴先まで、依然舐め回すように睨んでくる。

「うん。顔は似てるな。目が丸いから印象が大分違うけど。
 その制服、東高のか。濃い灰色なんて地味な色だけど、
 デザインは悪くないんだよなぁ……」

由乃の苛々指数が少しずつ上がっているのに気付いているのか、
もしくは分かっていてなお喋り続けているのか。
璃樹は不意にその顔を明るく純朴そうな笑みに変えた。

「似合ってる。可愛い。なかなかの上玉だよ」
「……はい?」

唐突の褒め言葉。
しかし数秒前のやり取りもあって、
由乃は呆気に取られてしまった。

「どう? これから嫌でも顔を合わせる機会が
 何回もあるだろうしお互いを知り合うという意味合いで
 オレの部屋でしばらく暮らすというのは」
「はあ? あの、何言ってるんですか!
 そっ、そんな事了承するとでも――」

璃樹は爽やかな笑顔を貼り付けたまま、
まるで親友にするように由乃の肩に手を置いて、言った。

「だって、桜橋の事、快く思ってないだろ?」
「――っ!」

まるで蛙を見付けた蛇のような目だった。

「そんな事、ありません」
「本当? 生まれてからずっと会った事もなかったんだろ」

蛇のようだった目が、獲物に向って一直線に降下してくる
――鴉のように鋭くなる。

「っ、い、いい加減に――」

「何やってんだよ。璃樹坊」

カッとヒールで床を打つ音を立てて
暖かな色合いのエントランスに黒い影が現れた。
間違えようもなく、今朝のままの黒ゴスロリの紋胤だった。

「お父さん」
「桜橋」

やっと救いの光が見えた声で呼ぶ由乃と、
邪魔が現れたという不快を隠さずに苦々しく呟く璃樹。

元々射ぬかんとするぐらいの紋胤の目は
機嫌の悪さを乗せていっそ辛辣なほどに輝いていた。

「てめえ、一ヶ月以上も女のとこに居座って何してたんだよ」
「べっつに? ただお前と一緒に仕事したくなくて
 社長の目から逃げていただけだ」
「給料ナシじゃねーか」
「この世の中の女性は優しいから大丈夫だ」
「黙れこのヒモ不良」
「コスプレ趣味の三三歳よりはマシだ」

……うわぁ何か出てる。二人の間から何かドス黒いのが出てる。
紋胤と璃樹の二人の間に挟まれた由乃は
どうしようもなくて縮こまる。
穏やかなエントランスが一気に二人のオーラに包まれて
どんどん腐食していってしまうのではないかと思った。
どちらも一歩も引かず、互いに鋭い眼光をぶつけ合っている。

「なあ桜橋。この子、預かっといてやろうか?
 どうせこんな甘っちょろそうな子がいても仕事の邪魔にしか
 ならねえって。蜜さんに話し付けるまでオレは預か――」
「――八つ裂きにするぞ」

ぶわっと、何かが立ち込めた気がした。

この二人が銃とか持ってなくてよかった――
良かった事探しをしてみた由乃がそう思った瞬間。
璃樹が右手をシャツで隠れていたベルト部分に手を伸ばした。
ゆっくりと手を引いてシャツの間から少しだけ見えた、
危険を孕んだ黒さで光るそれは――どう見てもハンドウェポン。

思わず叫びそうになった由乃の口を紋胤が素早く塞いだ。
璃樹の銃は、監視カメラから絶対に見えない角度で
由乃と紋胤だけに見せるようにしていた。
単なる脅しに過ぎないが――由乃は一気に冷や汗が出た。

「あ、あの、二人とも……」

歯の根が噛み合わない口で震えてはいるものの
なんとか声を出す事ができた。
先に殺気を収めたのは紋胤の方だった。

「染井に手ぇ出されて怒ってんのか?」
「うるせえ黙れマジ殺すぞ」

舌打ちしてカッカッと床を叩きながら歩き出す。
自動的にスライドしたマンションの入り口を通り過ぎて
黒い影が遠ざかっていく。

「じゃ、染井。せいぜいオレらの仕事の邪魔にならないようにな。
 社長はあいつの娘だからってお前に期待してるっぽいけど。
 オレの勘じゃ、無理だよ。
 ――お前はあんな世界と向き合えない」

既に笑顔を取り戻して、その笑顔のまま辛い言葉を
土産に璃樹はマンションの中へと去っていく。
二人の背中を見送った後、由乃も部屋へと戻っていく。
璃樹に言われた事を、心の中で何度も反芻しながら。

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