第1幕/04

日が完全に落ちて、街灯がおぼろげに点いた。
着いた住宅街はこの時間になってもあまり人が通らない。
確かにスリや引ったくりをするには最適の場所だと思えた。

「……はあ」

暗い夜道を一人で歩きながら由乃は溜息を吐いた。
何でこんな事をしているのか。

今回の実践研修。由乃の役目は、ずばり囮だった。

相手はスリ犯。人気のない暗い道を一人で歩く少女に
釣られないはずはない。
……さきほどまでの、何とか娘と接触を図ろうとしていた
父親の姿に心温まったのを由乃はなかった事にした。

四月の中旬になって日中は暖かくなったが、
夜はまだまだ冷える。
もう少し厚着をすればよかったと思いながら、
由乃は宛もなくうろうろしていた。
紋胤は少し離れた所から見張っているとの事だが
一体何処にいるのか由乃には分からなかった。

十分以上も歩き回り、そろそろ由乃の方が
不審者となってしまいそうな頃――

  こつ、こつ……

背後から足音。
まずはそれがスリであるかどうか、確かめる為に
少し歩き更に人通りのない道へ入っていく。
行き先がこっちなのか、それともスリの標的に由乃を選んだのか。

しばらくしても背後の足音は付いてきた。
心成しか少しそのスピードも上がっている。
やがて川沿いの道に出た。
大して綺麗でもない水が家々の明かりをぼんやりと映している。
さらさら、とかすかな流水の音。
そこで――背後の足音が走り出した。

「!」

慌てて振り向き、目の前に筒のような物が突き出されていた。
何もないように思えた筒の中から二つの青白い、
小さな光が見えた。

「――――ッ」

咄嗟に腕を前に出し、筒から出てきたものを叩いた。
キキッ、と鳴き声のようなものが聞こえ、
細長いものが地面に落ちる。
街灯が地面に落ちたものを照らし出す。

「……狐?」

金色のふさふさな毛。
申し訳程度に付いている手足。
親指ほどの太さしかない細長いそれは、狐の尻尾に似ていた。

「……チッ!」

スリ犯――驚いた事にまだ若い女性は
素早く懐からもう一本筒を出した。
今はっきりと視認すると、それは竹を模した
プラスチックの筒だった。
そこからまた、今度は赤い目をした狐のようなものが飛び出す。
狙いは由乃のポケットに入った財布ではなく、首。
首を腕でガードするとそのまま腕に巻きついてきた。
服の上から噛み付かれ、由乃が小さく呻く。

「あんた……管狐が見えるのね? 何者?」

女性は静かに問いかけてきたが、その目には焦りが浮かんでいる。
当然だが、今まで気付かれる事なんて一度もなかったのだろう。
眼鏡をかけ、スーツを着ているその姿は
キャリアウーマンを思わせた。

「……ここら辺でスリをしている人を捕まえに来たんです」
「そう。あんた、囮ってわけね? 仲間は何処?」
「単独です」

正直、まだお父さんは出てきてくれないのかと思ったが、
それを悟らせぬよう強気に出る。
女はふっと笑うと、赤いマニキュアの塗られた爪を
持ち上げた。

「管狐。遠慮する事ないわ」

管狐――飯綱(いづな)とも呼ばれる妖怪の一種であり、
使い手の憎む相手に憑けて病気にさせるなど悪事を働くと
されたものだ。

由乃は管狐と言う妖怪の事は知らなかったが、
とにかくこれが常識を超えた異能であるという事は分かった。

――それだけ分かれば、充分。

腕に絡みつく、管狐を無理矢理剥ぎ取り地面に叩きつける。
普通の人にはこういったものが見えるどころか、
触れる事もできないのだが――まるで当たり前のように
触れている由乃を見て、女は驚いたようだった。

二匹の管狐は一度竹筒の中に戻され、
女と由乃が対峙する。

「大人しく捕まっといてくれませんか?」
「嫌よ。折角こんないいもの手に入れたのに」

女が竹筒を持った手を突き出す。
――それよりも由乃は早く行動していた。

「ジューダス」

走狗の名を呼ぶ。
次の瞬間、異常な現象が起こった。
街灯を受けて由乃から伸びる黒い影。
そこに赤い獣の目と獣の口が開いた。
平面である影から、立体を持った黒い“狗”が這い上がってくる。

女は目を見開き、管狐が戦いたように停止した。

ある人はそれを黒犬獣(ブラックドッグ)と。
ある人はそれを怪犬彫刻(ガーゴイル)と。
ある人はそれを地獄の番犬(ケルベロス)と。

様々な呼び方と見解があったが、由乃はこの狗に対して
特に確実な定義を求めていない。
だから大雑把に自らの黒い走狗だと思っている。
それが異世界の生物なのか、影の妖怪なのか、
もしくは由乃の中にあるイメージの具現化なのか。
由乃自身を含めて、分かる者は誰もいない。

この狗に関して分かっている事はただ一つ。
喰ったモノをすべて消滅させる能力を持っているという事。
苛烈にして単純な異能。

ジューダスと言う名は紋胤に付けろと言われて付けた名前だ。
曰く、走狗として支配するならまずは名前を付けておけ。
それを言われた時、由乃の中には自然とジューダスと言う
単語が浮かんだ。
後で調べてみたが、ジューダスと言うのはキリストを裏切った
ユダの事であり、そこから派生して「裏切り者」の
意味がある言葉だった。

何故そんな聞いた事もない単語が浮かんできたのかは
分からなかったが――とにかく浮かんできたものはしょうがない。

ジューダスと名付けた狗は、影から這い上がると
擦り寄っているつもりなのか、由乃の足にくっ付いた。
だけど体温も毛並みの感触もしない。

「な、な……なんなの、それ」
「さあ。あたしにもよく分からないんです」

この狗を出すと、いつも由乃は何かが欠けるような
感触を覚えた。

無駄なものの一切が滑り落ちて、軽くなっていくような。
視界と思考がクリアになる。

恐怖がなくなる。

この狗がいる間は、由乃から恐怖が抜け落ちるのだ。
たった一つ、紋胤と出会った時を除き
ジューダスと共にいる時は何もかもが怖くなくなった。
どうして恐怖がなくなるのか。
どうして紋胤はあんなに怖かったのか。
理由は全て分からないままだったが、
今だけはそんな事に興味はなかった。

由乃の目が冷たく研ぎ澄まされていくのを感じ取ったのだろう。
女の手が素早く動き、筒から管狐が飛び出す。

「ジューダス。――“喰”らえ」

由乃を守るようにジューダスが飛び出し、赤い口を開ける。
勢いそのまま管狐はその口の中に飛び込んでしまい、
ジューダスの口が閉じる。
ゴリ、という音がして口の中に入っていなかった管狐の
頭と尻尾が落ちた。
地面につく直前で、頭と尻尾だけの管狐は砂のように霧散した。

「な……な、え? どういう……事?」

由乃の冷めた目が一歩後退した女を射抜く。
黒い狗が、赤い口を歪ませて笑ったように思えた。

→ 次へ