第1幕/05

残ったのは青い目の、一匹。

「管狐!」
「ジューダス!」

互いに名前を叫ぶだけの指示を飛ばす。
黒狗は駆け出し、真っ赤な口を大きく開けて
管狐を噛み砕こうとするが、見えない壁にぶつかったかのように
弾き飛ばされた。
悲鳴も上げず、黒狗は空中で器用に回転して
由乃の隣に着地した。

「なに? どうしたの?」

わずかに聞こえる、喉を低く震わせて響く唸り声。
由乃の疑問に余裕を取り戻した女がねっとりと答えた。

「呪力よ。そんな事も知らないの?」
「……呪力」

それはさきほど紋胤が漏らした単語で、面倒くさいを理由に
説明をされなかった。
しかし今の由乃には何となく分かった。
多分、呪力とは漫画とかゲームに出てくる魔力に
近いものの事だろう。

「質問、いいですか」

律儀に挙手をして由乃は尋ねた。

「どうぞ」
「呪力は、限度がありますか?」
「ええ。無限じゃないわ。
 ゲームで言うところのMPみたいなものよ。
 使えばなくなるし、使う量によって出せる技の威力や
 効果も全然違う」
「それは人間にも使えますか?」
「厳密に言えば使えないわ。人間にできるのは正しい手順の
 儀式を以て呪力を持っている異形から借りる事だけ。
 ただし――偶に呪力の塊を持って生まれてくる人も
 いるみたいね。あんたのその犬も、多分それの一種よ」
「ありがとうございます」

ふざけているのか真面目に言っているのか。
前者と受け取ったらしい女は眉をひそめ、不快を示したが
すぐにふっと笑い、川の柵に手をかけ
軽く地を蹴ってそれを飛び越えた。
すかさずそれを追って由乃も柵に飛び込んだが
女は浅い川に足を浸して、逃げる素振りを見せなかった。

由乃も構わず川に飛び込み、足首を濡らした。
かすかな音を立てて水が流れる。
春の水は冷たかった。
由乃の影であるジューダスも川に下りた。

「あんた、馬鹿なのね」
「?」
「相手が移動するっていうのはね、
 自分に少しでも有利なステージを手に入れたいからよ」

ビキ、と。

足に唐突な冷たさを感じた。

見ると女の足元に身を浸した管狐の所から川が凍っていて、
それが由乃の足元まで伝っていた。
川に浸っていた部分が凍っている。
直に伝わる冷気は血の流れが凍ると思うほどだった。

「残念。そのワンちゃんは影だから駄目だったみたいね」

確かにジューダスの足元も四つ凍っていたが、
ジューダスは氷に囚われてはいないようだった。
しかし由乃の方は動かそうと試みるがビクともしない。

「管狐。殺れ」

それは殺人を命令したにしてはあまりにも淡々とした声だった。
感情が無いというか、まるで何でもない事を
頼むような軽い声音だった。

もう一度水に身を浸した管狐から川が凍る。
それはいやらしくも追い詰め、責め立てるように
少しずつ、少しずつパキンと澄んだ音を立てながら
由乃に向う。

女は会心の笑みを浮かべた。
絶対的な優位に立っているのだという事実が
女の心に余裕と隙を作る。
だから――女がそれに気付いた時は全てが手遅れだった。

トドメを刺される直前のはずである由乃は
悲鳴一つ上げずに目を閉じていた。
聞こえない声を聞こうとするかのように、
ただ揺れの無い心で耳を済ませていた。

「……ああ。一ヶ月ぶりだから……お腹減ってるんだ」

由乃はまるで独り言のように小さく、誰かに語りかけている。
女がその声を聞き、不審に思ったが――

「いいよ。遠慮なんてしないで……喰らい尽くしても――」

狗が嗤った。
今度こそ、確かにジューダスは口端を持ち上げて
心底嬉しそうな顔をした。
由乃はジューダスに語りかけていたのか――
女の頭にそんな疑問が浮かんだが、思考を中断させる
音が鼓膜を震わせ、そして光景が網膜を焼いた。

川が凍り付いた所を、狗が喰った。

この氷はただの氷ではない。
管狐という異形のものの呪力で作られたものなのだ。
炎でもすぐには溶かせないはずの氷を
狗はシャーベットでも食べるかのように喰った。
当たり前のように嚥下される。

呪力の氷を食べて一歩一歩こちらへ近付いて来るジューダス。

「あ、え? そんな……そんな!」

女が悲鳴に近い高い声を上げるが、
ジューダスは止まらず、由乃も止めようとしない。
管狐が驚いたように身を震わせ
その細い体に燐光を浮かばせて更に強く川を凍らせに
かかるが、それでもジューダスは止まらない。
寧ろ、先程よりなお嬉しそうに――

「いやっ……う、ううう嘘よ!
 あた、あたしが負けるなんてっ。管狐が負けるなんてぇ!」

「ジューダスはその呪力とやらが好きなんですよ」

錯乱する女に由乃は冬のような声をかけた。
由乃の目に恐怖など欠片もなく、いつもよりシビアな闇が
ぽっかりと浮かんでいた。

「お腹が一杯になるんだって。
 満たされる気になるから気持ちがいいって。
 ウチの狗は“食欲”がすっごい貪欲なんです。
 だから多分それがあたしの勝因だと思います。
 ――ジューダスは罪深いほど欲深いので」

己の力を過信して絶対に負けるわけがないと思っていた
女に声は届いているのかいないのか。
そしてジューダスの鋭い歯が、管狐に届き――噛み砕いた。

キ、キキキキィィィ、キィ、キ……

断末魔としてはあまりにも小さい声を上げて
管狐が消滅し――ジューダスは異形の呪力を喰らい尽くす。

「ふっ、あ、あああああぁぁぁああぁあ!!」

螺子が飛んだような、何かが外れたような絶叫。
女が叫びながら懐に手を伸ばし、取り出したのは
昼間にあの璃樹という青年が取り出したのと似たもの。
拳銃。

滅茶苦茶にろくに狙いも定めずに、
しかし二人の距離はそこまで離れていないので撃てば当たる。
女は血走り見開いた目で由乃を睨みつけ
恐怖心に駆られるままに引き金を引こうとした腕に
突如あらぬ方向から飛んできた鎖が絡みついた。

完全に意表を疲れる形となった女はあっさり鎖に操られて
銃を手から取り落とす。
慌ててそれを拾おうとするがグンと巻きついた鎖に引っ張られ
バランスを崩し、後ろに倒れかかった所で
誰かに受け止められた。

首を動かせば、吃驚するほどの性別不祥な美人が
冷ややかな目で自分を見ていて――

そこで女の意識は落ちた。

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