第1幕/06

紋胤がターゲットの女を気絶させた時、
近くのマンションから双眼鏡でその一部始終を見ていた者がいた。
まだ高校生くらいの少年で、細いフレームの眼鏡をかけている。
一見すると物腰穏やかな文学少年のようだ。
しかし不気味な事に格好は所々が赤く薄汚れた紺の学ラン。
その口元には薄く笑みが浮かんでいて、まるで妹か何かを
見守るようにも見えるが――それにしては何か底知れぬような、
全身の細胞が冷えていくようなものを覚える。

勘の鋭いものならすぐに気付くだろう。
何故だか分からないけど殺されそうだ、と。

少年は学ランから少し古いタイプの携帯電話を取り出し、
手馴れた動作で一つの番号を呼び出し電話をかけた。

「……もしもし。僕ですけど。
 ええ、はい。あの女の人は駄目でした。
 明らかな人選ミスですねぇ。
 管狐? 消えましたよ。
 ……あー、面倒なので帰ってから報告します。
 カンパニーの桜橋紋胤が動きました。何か一人じゃないです。
 女の子が一人。紋胤にちょっと似てますね。子供かな。
 面白い子ですよ。影から変な犬……いや狗を出して。
 だから詳しい報告は帰ってからしますって……」

   × × ×

由乃には突然、それこそジューダスのように影から
湧いて出てきたように現れた父親に
女が抱きとめられた瞬間彼女が気絶したように見えた。

「殺したの?」

恐ろしい事をさらりとした口調で問う娘を
訝しげに見遣りながら、紋胤は違うと答えた。

「首をちょっとクリっとやって気絶させた」
「ふうん」

分かっていないが分かったように相槌を打つ由乃を
紋胤は更に別のものを見るような目で見る。
呪力を行使していたものを失い、氷は解けて由乃の自由は
取り戻された。
歩くような気軽さで川から上がる。

「どうかしたの」

問いかけると、紋胤は気まずそうに頭を掻きながら
躊躇ってから言葉を紡ぐ。

「……お前、由乃だよな?」
「そうだけど」
「いや。おかしいぞお前。何でそんなにドライなんだ」
「さあ? ジューダス出すと、いつもこうなんだよ。

 ……全部が凄く遠くに感じる。

 怖い化物がいても百キロ先にいるならまだ怖くないでしょ?
 そんな感じなんだよね。何も怖くない。
 海の向こうで起きてる戦争のニュースを観てるみたい」

普段の由乃なら絶対に言わないようなセリフを
淡々と零す姿を、父親は見開いた目で見ていた。
見開いた目に浮かぶのは、驚愕と同情とどうしようもない悔恨。
磨り潰すような歯軋りをする父を、娘は不思議そうな目で見る。
何処か空虚で、遠くのものを見ている目だった。

「由乃――」
「なに?」
「――――いや。いい」

嫌な後味の残る言い方だったが、“今の由乃”は
特に問い詰める事は無かった。
お父さんらしくないな、と思ったがそんな自分の考えさえも
今の由乃には本当に遠かったのだ。

紋胤が一度顔を伏せる。
すぐに上げた顔はいつものように不遜さを感じさせる紋胤だった。

「ま、よくやった方だな。色々イレギュラーがあったにせよ。
 前にも言ったがこちとらイレギュラーが当たり前だしな。
 しかし娘のピンチに颯爽と現れる俺……
 さそがし格好良かっただろうな」
「服装がゴスロリじゃなければ」
「だからいいんだろうが」

落胆を表すために大袈裟に肩を落としてみせた。
そんな紋胤を無視して由乃はジューダスに戻れと命じた。
するとジューダスは由乃の影に染み入るように
その姿を完全に闇の中に戻らせた。
娘の異能を目の当たりにしながら紋胤が言う。

「……会社の奴を呼ぶ。女はそいつに回収させるから、
 俺らはもう帰――」

る、と最後まで言葉を繋げられなかったのは
狗をしまった糸が切れた人形のように
由乃が崩れ倒れて来たからだった。

「よし――の?」

驚いて腕を差し出して由乃の体を受け止めた。
背の高い方である紋胤の腕の中に由乃がすっぽりと収まる。
どうしたのだろうと一瞬の内に様々な逡巡が
紋胤の脳内を駆け巡ったがそれはすぐに判明した。

「…………すぅ……」
「……寝てるし」

そういえば、と思い出す。
一ヶ月前、由乃をあの黒いビルの中から担いで歩いている時
気が付いたら由乃は眠っていたのだ。
それも確かまだ名前の無かったジューダスをしまった直後だ。

人間が異能を持つと、それ相応の代償が要る。

由乃のそれはきっと睡眠なのだろうか。
もしかしたら黒い狗を出すだけで相当に精神力が
削られているのかもしれない。

頭の中ではそんな異能についての
考えが巡るが――
静かに寝息を立てる娘をふと見て、頬が緩んだ。
難しい事は後で考えよう。

普段は年頃にしてはドライでクールな由乃も
寝ていればまだまだ可愛らしい子供の寝顔をしている。
慣れない手付きで由乃を背負い、
だが何だか上機嫌で紋胤は暗い道を歩き出す。

娘をおんぶしてみたいという夢がこんな所で叶ってしまった。

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