第2幕/05

由乃は自分がデパートで買った服のままでいた事と、
夕飯に買い忘れたものがあるのを思い出した。

「肉じゃがなのに牛肉を忘れた……」

肉じゃがではなくて“じゃがじゃが”になってしまう。
着替えようと思ったが、それはそれで面倒なので
そのまま行く事にした。
『猫のひげ』の入り口で「用事ができた」と言う紋胤と
分かれて近くのスーパーへ行く。

スカートを穿いているのにズボンを穿くと全く気にならない。
何かと気を遣わなければいけないスカートが由乃は嫌いだが、
このスタイルは自分自身で意外に思うほど
気に入ったように思う。
それでもいつもより少しだけ派手な格好は
なんだかむず痒い。

キャットウィスカー・マンションは最寄り駅の南口側で、
スーパーは駅が近い場所にある。
駅へ続く大通りに入って、由乃は先ほどの
遣り取りを思い出す。
あの地図は駅と道しか書いていなかったので
具体的に何処で起きたのかは分からないが、

「ここら辺かな」

自分が立っている場所をぐるりと見渡す。
六芒星を一筆書きで書く時の四番目の曲がり点。
日付で言うと古い方から四番目。確か四月六日。
ここで、この街で何かをやらかそうとしている誰かが
何かを起こした。
Q・M・Co.にマークされている場所。
しかし周りを見渡してみても、特に変わった所はないし
被害があったような跡もない。

「……あ」

一つ思い出す。
四月六日は紋胤が仕事に行った日だ。
あの日は確か真夜中に出掛けて朝になっても帰って来なかった。
流石に心配になったが、学校から帰宅すると
何事もなかったかのようにドレスを着た紋胤が
ソファで寛いでいたのだ。
呆れて、同時に少し苛立ったのも思い出す。

もしかしてここで起きた事を処理したのは
紋胤だったのだろうか。

「由乃ちゃん!」

思考に耽りながら歩いていると
前の方から明るい声が名前を呼んだ。
まるで飼い犬が主人に駆け寄るように嬉しそうに
走ってくるのは――

「篝火先輩」

篝火富太郎。 由乃の先輩で『猫のひげ』のアルバイト店員。
顔はいいのに性格は明るいというかちょっと抜けていて
ドジな所があり、そのせいでいつも体の何処かに
絆創膏が張り付いている。
今日も頬に絆創膏が張ってあった。

「由乃ちゃん、買い物?」
「はい。ちょっとスーパーまで」

富太郎は紙袋を持っていて、その中に丁寧に包装された
食器類が見える。
そういえば彼は食器の買出しに言ったと東雲が言っていた。

「何買うの?」
「肉じゃがにしようと思って、牛肉です」

恥ずかしくて買い忘れたとは言えない。

「わあ家庭的な料理だね!
 凄いねえ。ぼくのお母さん料理はあんまり上手くないんだ。
 その代わり妹が頑張ってるんだけどね」
「え。先輩、妹さんがいるんですか?」
「うん。三つ下なんだー。
 いい子でしっかりしてるんだよ!」

素直に身内を褒める所は流石と言うかなんと言うか。
崎に似た素直さと明るさを持つ富太郎は、
最近濃い性格の人とばかり知り合いになってしまった
由乃にとってあまり力を入れずに話せる貴重な人物でもある。
そうでなくとも、彼には人の心をすぐに解きほぐしていく
ある意味物凄い才能がある。

「今から行くんだったら付いて行くよ。
 そろそろ暗くなるし」

そういえば辺りはいつの間にかオレンジ色だ。

「あ、いえ。まだ大丈夫ですよ」
「帰る頃には暗いよ。
 大丈夫! 変な奴が来たら必ず逃がしてあげるから!」

言いながら、由乃がいいと言う前に既に向きを逆に変えて、
スーパーのある方向へ歩き出している。
断ったら逆に悪いな、と思い由乃もその隣を歩いた。

「そういえば、由乃ちゃんいつもとなんか格好が違うね」
「あ、これは……今日お父さんと崎さんと璃樹さんに
 買いに行かされて……」
「由乃ちゃん、いつも灰色とか黒っぽいのしか着ないよね。
 ぼくももっと明るい色を着ても可愛いんじゃないかなって
 思ってたんだ。うん、似合うよ!」
「そ、そうですか?」

と、富太郎の方へ向き由乃は驚いた。
今まで気付かなかったが、富太郎は腰に『猫のひげ』の
エプロンを巻き着けたままだった。

「篝火先輩、あのエプロン……」
「え? ――あっ! エプロン付けたままだ!」

つい、ぷっと由乃は吹き出してしまう。

「あー、酷いっ。人の失敗を笑うなんて!」
「そうは言われても……どうして気付かなかったんですか」

ころころと笑い声を口から零していく。
紋胤や璃樹の前ではまだ晒した事のない、
素直な由乃の笑顔だった。



富太郎の言った通り、スーパーから出る頃には
辺りはすっかり日も落ちて暗くなっていた。
牛肉とついでに紅茶パックも買った由乃と
コーラを買った富太郎が並んで歩く。
楽しそうに世間話を話し続ける富太郎の言葉に
相槌を打ちながら由乃はいいようもない気持ち悪さを
感じていた。

人がいない。

今富太郎と歩いているのは大通りから外れたとはいえ、
時間帯的に家路に着く人が多いはずだ。
それなのに、数分前からすっぱりと人が消え
誰とも擦れ違わない。
……なんか、ヤバい気がする。

「――由乃ちゃん?」

富太郎が心配そうな顔で覗き込むように由乃に声をかけた。

「どうかした? 気分悪い?」
「……いえ、なんでも。
 先輩急ぎましょう。東雲さんも待っていると思いますよ」
「う、うん……?」

偶然かもしれないと考えるが、それはない。
影の中のジューダスが唸っているのが、
聞こえていなくても第六感的な感覚で分かる。
と、前の方から足音が聞こえてきた。
思わず安堵の息が深く出た――が、

   ――バルンッ

馬が嘶くような音。
聞き慣れない音だが、だからこそすぐに理解出来た。
ババババババッ、と高らかに叫ぶような低く唸るような音。
何かが激しい勢いで回転する音。
危険で、死さえも匂わせる音。それは――

前の方からやって来たその人が街灯の下に立つ。
細い銀フレームの眼鏡をかけていて、何の変哲もない
学生服を着た、何処にでもいそうな普通の少年。
だが、彼は普通ではない。

由乃の常識が正しければ、甘く蕩けるようなうっとり顔で
チェーンソーを持っている奴は普通ではない。

チェーンソーの刃が回転するのをバックミュージックに
学生の服の少年は笑顔で、
まるで新しい職場の先輩に挨拶するような声で言った。

「はじめまして! 『人でなし』の娘さん!」

影の中で、ジューダスが吼えた。

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