第2幕/06

Q・M・Co.社長室。

机、椅子、棚、ソファ、テーブル、絵、観賞植物。
必要なものと最低限の飾りしかない部屋を
蛍光灯がキツく照らしている。
絵も植物も一応置いてあるだけ、という印象だ。
机に肘をつき、黙って書類を見つめてた女社長が気配を感じて
顔を上げたタイミングで、ノックも無しにドアが開かれた。
そんな失礼な入り方をする人間は彼女が知る限り一人。

「あら? 今日は貴方に仕事はなかったと思うけど。
 仕事熱心なのね、紋胤」

真っ赤な口紅と真っ赤なマニキュアが蛍光灯に映える。
Q・M・Co.社長、事澤名雪(ことさわ なゆき)は
書類を一旦置くと紋胤に向き直る。
蛍光灯の下でそれこそ影から浮かび上がったみたいに
真っ黒な紋胤は呆れたように言う。

「今すっげぇ書類と顔が近かったな。
 無駄な抵抗は止めてさっさと老眼鏡買えよ」

それを言った瞬間目にも留まらぬ速さで名雪の右手が
修正テープを掴み、洗練されたスナップでそれが飛んだ。
ひゅっ、という音が聞こえそうなほどの勢いで飛んでくるそれを、
しかし紋胤はなんの動揺もない滑らかさでキャッチした。

「チッ。腐っても我が社のエースか」

心底悔しそうに舌打ちをする。
名雪の前で自身の年齢に関係する話題は禁句らしい。

「あのな? 俺は今親切心で言ってやったんだぞ。
 無理すりゃ悪化する一方だろうが」
「認めないわ。大事なのは年齢じゃなくて心の中身よ。
 具体的に言うと心はいつでもハタチ」
「平均寿命的に折り返しの歳なんだから、そこはいっそ
 全てを受け入れた方が美しいと思うぞ?」

所属する会社のトップに対して言う言葉ではないが
二人の間にはそれを許せる、上司と部下以外の気安さがあった。
親指で弾いて修正テープを社長机に返し、
接客用の革張りソファに遠慮なく身を沈める。
息を吐き今までの緩さを消し、真剣な顔で、

「今回の混乱の犯人、お前も俺も、そして蕗時の奴も
 もう分かってる。そうだろ?」

なんの前置きもない唐突な言葉。しかし紋胤が来訪した瞬間から
その話題が来る事を予測していた名雪は滞りなく答える。
その返答も、紋胤が半ば予想していたものだった。

「そうね。あんな馬鹿をするのはアイツくらいだわ。
 ――アイツが戻って来たのかもしれない」

素直に告げられた推測に紋胤は
苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔をした。

「どっかの山奥でのたれ死んでりゃ万々歳だったんだけどな」

深い憎しみの篭った低い声。
そこにその仇敵がいるかのように目の前の宙を鋭く睨みつける。

「……ふざけやがって」

ドロリとまとわり呑みこもうとしてくる暗い感情を払うように
反動をつけて座ったばかりのソファから立ち上がった。

「あら。もう帰るの?
 気を付けなさいよ。アイツが由乃の事を知ったらきっと、
 ――絶対にちょっかい出して来るわ」
「好んで職場に長いなんかしねえっつの。帰る。
 あと、それくらい言われなくても分かってんだよ。
 もし奴の居場所が分かったらすぐに情報を回してくれ。
 アレは俺が殺すから。絶対」

不穏な言葉を落として再びドアノブに手を掛ける紋胤。
そのやや急いでいる黒い背中を見て、
名雪は何かに気付いたように微笑んで頷く。

「あら、夜の徘徊癖、止めたの?
 あー、そっか。夕食を作るのは由乃なのね。
 由乃が来てからすぐ帰りたがるようになっちゃって。
 なんかつまんないわねー。由乃が来てから、
 貴方すっかりヘタレ化してない?
 駄目よ。キャラクターは大切にしなさい」
「さっさといい奴見つけて結婚して辞めちまえ。
 まあ無理だろうけどな」

ガァン、と壊れそうなほど乱暴にドアが閉まる。
一瞬送れてそのドアに名雪が投擲した万年筆が突き刺さった。

   × × ×

思考はなかった。ただ無意識に、反射で体が動いた。
気付けは呆然とした顔の富太郎の横を全速力で駆けていた。
富太郎がすぐ傍にいる。アレを見られてしまうのは駄目だ。
しかしそれを気にして背を向けて逃げるのはもっと駄目だ。
直感が、ジューダスが警告する。叫ぶ。

殺さないと殺される――

影からジューダスが滲み出る。
交わせる言葉がなくても由乃に伝わってくる狗の思考。
ジューダスが伝えてくる事は肌のピリピリした感覚で理解出来た。
あのチェーンソーは半分以上を呪力で構成している。
なら、ジューダスで喰い消せばいい。

「行けッ!」

命じた。
黒い弾丸となったチェーンソー目掛けて駆ける。
真っ赤な口を大きく開けて飛び掛り――
それに対して少年が行ったのはただチェーンソーを持っていない
手を前に出しただけだった。
広げた指を、何かを握っているかのように軋ませながら
折り曲げていく。
そこに由乃は目に見えないはずの力の流れが見た気がした。

狗が突進する。
しかしジューダスの影の牙がチェーンソーにも少年にも
届く事はなかった。
紙袋を割ったみたいな音が響き、ジューダスは
少年から距離を取る。

弾き飛ばされた。
いや、
受け流された――?

「うわー、今のはちょーっと危なかったなぁ。
 まあ、あくまでちょっとなんだけどね?」

余計なものが落ちていく感情の中で由乃は冷静に思考する。
富太郎を庇うように前に進み出て
正体不明のチェーンソー少年を睨みつける。
少年は由乃の無言の疑問を察したらしく笑顔で答えた。

「分からないかな? ただ呪力の流れを操っただけださ」
「呪力を、操る?」

昨日会ったあの管狐の女は、人間に呪力を操る能力はないと
言っていた。もしかして人間の姿を取っているだけで
彼は実は異形のものなのだろうか。

「操ったって言ってもただ流れを動かしただけで
 変質はさせてないけど。
 変なものを見るような目で見ないでほしいね。
 僕は人間だよ? ただ少し他の奴らと歩いている道が
 ズレているだけ。――君も、そうなんだってね?」

最後の一言が胸に浸透する。
それを遠い意識の外へ追いやり後ろにいる富太郎に声をかける。

「先輩、ここから離れて目を瞑って耳を閉じていてください」
「よ、由乃ちゃん。何? え、これ、何?」
「すみません。説明はできないんですが、とにかく早く……」

「――篝火君?」

驚いたように富太郎の苗字を呼んだのは目の前の少年だった。
彼は眼鏡のブリッジを押しながら富太郎を凝視する。
富太郎も今初めて彼の顔をちゃんと見たらしく、
同じように驚いた声を上げた。

「えっ、羽佐間(はざま)君?」

目を丸くして富太郎と羽佐間と呼ばれた少年を見比べる。

「あの、知り合いなんですか?」
「知り合いも何も、去年同じクラスだったんだけど……」
「はい?」

という事は、クラスメイトなのだろうか。
確かに彼は学ランを着ているが由乃たちの学校はブレザーだ。
それにこんな危険人物と人畜無害の仲がいいとは
……到底思えない。

「『人でなし』の子供と篝火君が知り合い?
 ……うーん、まあ、いいや。
 なんかメンドいし、……僕は染井由乃さんに用があるんだし」

――どうしてあたしの名前を。
警戒心が高まるにつれ、クリアになっていく思考は
浮かび上がる数々の疑問さえも削ぎ落としていく。

先手必勝とばかりに、なんの合図もなく
由乃は地面を蹴った。

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