第3幕/歪み予感 01

深夜の人気の無い道でピチャリという音が
静かに空気を震わせる。

「うはぁ」

歓声のつもりの奇妙な声を上げて
たった今“鋏で”殺した人間の血を体中に浴びながら
銀フレーム眼鏡の少年は恍惚とした笑みを浮かべる。
彼の後ろでまだ幼い女の子がガタガタと何かの禁断症状のように
体全体を震わせているが、全くお構いなしで
彼は彼の幸福に浸る。

「やっぱり命をもらっているって感じがするよ」

もはや苦しむ事も考える事も出来ないものになってしまった
死体から鋏を抜く。筋肉が硬くなっていたが大した障害ではない。
抜いた途端、そこからまた鮮血がぷーっと噴き出した。
背後で、ぉぐぇ、という奇妙な女の子の声が聞こえ、
今聞いたばかりの音に近い液体の落ちる音が響く。

振り向くと、赤いランドセルを背負った十二歳ほどの少女が
体を折り畳んで吐いていた。
周囲に広がる胃液のにおい。

「あれ、大丈夫?」

どちらかといえば彼の脳に向けられるべき言葉を言い、
以外にも本当に心配そうな声をかける。
少年はにおいも汚れも全く気にせずに少女に近寄り、
背中を擦ろうと手を伸ばしたが――

「……ゃ!」

蚊が飛ぶ音だってもう少し大きいだろうというほどか細い声。
少年の手が触れる前に、体をくの字に曲げて苦しんでいた少女は
素早く身を引き三メートル以上の間を取った。

「ぁの、ご、ごめ、なさい。
 そそ、それい、ぃじょ、……近付かないで」

明らかに怯えが混じっている声。
それでも「近付かないで」という言葉だけはハッキリとしていた。
少女は真っ直ぐ伸びた黒髪に気の強そうな太い眉と
まるで平安時代の美女のような成長を期待できる容貌を
持っていたが、それは全て彼女の暗い雰囲気と
病気のような細さと白さの体が不気味に浮かび上がらせていた。

血塗れの少年は、困ったなぁ、と笑い、

「君は相変わらずの人嫌いなんだね。先生以外は駄目なんだ。
 まあそれが、結界になってるんだけど……」

三メートル先の少女と目線を合わすようにしゃがんで、
あのね、と語り出す。

「君が思っているほど、人は気持ち悪くないよ。
 ほら、見て。僕にも君にも、コレにもこんなに赤くて黒くて
 力強い血液っていう綺麗なものが入っているんだよ」

ほら、と彼は自身の掌に付着した血を見せるように
広げて見せた。
少女は眼球が零れるのではないかと思うほどに目を見開き、
青い顔を更に真っ青にして悲鳴を上げた。

「ひぁっ……ひゅ、ぁあ、ぁぁあゃああぁ……!
 ひゃだぁ……やだ、気持ち、わわ悪い。
 こわ、こわわ、怖い! せ、せんせぇどこーっ!?」

声がイカれてしまったかのような音を喉から出し、
泣きながら「先生、先生」とすがるように
更に人気の無い道をなんの躊躇いも無く走っていってしまう。

「あ、こら。一人は危ないよ。
 というか単独行動なんてしたらそれこそ先生に怒られるのに」

暗い影の向こうに消えていった彼女を追って、少年は
ゆっくりと歩き出す。
口の周りについた、固まりかけた血を下で舐め取った。

「うむ。あの子には遠く及ばない」

今日。夜の始まり頃に襲った少女。
結局、邪魔が入ってしまい任務は遂行し切れなかったが
自分にとっては大きな収穫があった。
染井由乃という少女。
『人でなし』桜橋紋胤の娘であり、自分が学校に通っていた頃に
まあまあ仲の良かった友人の後輩らしい。

もう舐め取ってしまったが、頬に付着した彼女の血は
膝を突くほど鮮烈で痛烈な何かがあった。
それと、

「いい顔してたな……」

人でなしの娘、という肩書きに相応しい顔。
人間を捨てている顔。
染井由乃自身にそのつもりはないようだったけれど。

「もう一度会いたい。
 いや、何度だって会いたいな」

今度は可愛い花束を持っていってあげよう。
そうしたら血をくれるかもしれない。
まるで吸血鬼のような事を考えながら少年は暗闇の中に消えた。

   × × ×

由乃が例の刃物少年に襲撃されてから一週間が経過した。



自分の為にご飯を作り、自分一人で食べる。
それがこんなに白々しいものだとは。
馬鹿馬鹿しくさえ思えてきて、由乃はその日外で食事を済ませた。

三〇五号室のドアを開けると、出掛ける時にはあった
父親の硬そうな靴がなくなっていた。

「……出掛けたんだ」

出掛ける前に軍服――由乃には分からないが、多分日本の軍服を
真っ黒く染めたものをしっかりと着込んでいたので
今日も出掛けるんだろうか、と思ったが
何となく聞き出せなかった。

あれから一週間。紋胤は毎夜毎夜、仕事に出ていた。
一週間より前まではこんな事はなかった。
少なくとも一週間か十日に出る程度だ。それなのに、
この一週間は毎日仕事に出て、由乃が学校に行っている間に
帰って来るというのがお決まりになっていた。
自分たちの仕事は普通ではない。仕事がないのなら、
寧ろそれに越した事はないようなものなのだ。
この街は特に不可思議な現象が起きやすいらしいが、
それでもこのペースは――紋胤が出なければならないような
レベルの物がこのペースで出るのは異常ではないだろうか。

心配ではない、わけではない。

素直に「心配だ」とも言えない。だからといって
代わりに言う言葉も思い付かない。
せいぜい「気を付けて」しか言えない。
元からだが、最近は特に二人のすれ違いが酷いものになっていた。
帰ってきた紋胤は大抵寝ていて、非常に疲れている。
……前は紋胤がハイテンションで話しかけてきてくれたから
まだよかったが、最近はそれさえもない。
紋胤は物凄く焦っているように感じる。苛々している。
そういう感じの人に話しかけるのは、苦手だ。

「お母さんならなんて言うんだろ」

お母さん。染井蜜。
由乃の母親。婚姻関係のない、紋胤の妻。
生涯を通して愛する人を紋胤としている人。
その時点で充分変わっている人だが、残念ながら由乃の母親は
元々かなり変な人だった。

――お母さんなら、当たり前みたいに「心配だ」って言えそう。

一ヶ月以上、声も聞いていない母親の顔を思い描く。
紋胤があの日までずっと由乃と蜜に連絡を取らなかったのは、
ただ関わるだけで二人を危険に晒す事になるから。
それを由乃も理解して、あの中学の卒業式の翌日から
電話も手紙も、何もしていない。
会いたいと思ったが、それはきっとしてはいけない事だった。



その日の夜。
静けさが沈殿したような部屋にチャイムが鳴り響いた。
思わず全身を跳ね上げさせて起きた由乃は
ベッドから飛び降りて寝巻き姿のまま玄関に向った。
紋胤が帰ってきて、きっと鍵を忘れたのだろうと思った。

「お父さん――」

何の疑いもなく鍵を開けて、ドアを開く。
まず感じ取ったのが酒臭さ。
そこにいたのは紋胤ではなかった。

「あーいかっわらず陰気っぽい面ァしてんな、お前」

いきなり辛辣な事を怪しい発音で言ってきたのは
かなり酒に酔っていると思わしき――璃樹だった。

「え、璃樹さん?」

唖然としている由乃の横を璃樹が通り過ぎる。
普通に部屋に入ってこようとしていた。

「ちょ、な、なんですか?」

由乃の当然の抗議に璃樹は真っ赤な顔で振り向き、
とんでもない事を抜かした。

「一晩泊めろ」

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