第3幕/歪み予感 02

母親は酒を呑まない人だ。
飲むとしてもチューハイを一缶だけ。
父親も酒は呑まない方らしい。
少なくとも由乃は紋胤がお酒を呑んでいる所を見た事がなかった。
酒好きの知り合いを由乃は持った事がない。
だから由乃は酔っ払いの対処法が分からなかった。



「自分の部屋に戻った方が……」
「やーだね」
「物凄く迷惑なんですけど……」
「知った事か」
「ウザいんですが……」
「いきなり言葉が辛辣になったぞ、おい」

思い切って酷い言葉を言ってみても璃樹は一切めげずに、
寧ろより一層の粘つきを以て部屋に居座り続けた。
どうしたものかと初めての体験に混乱しかけた頭を
冷静に引き戻し、下手に騒がれるより
酔いが醒めるまで数時間ここに置いてやる事にした。
――お父さんがいなくてよかった。
紋胤がいたら、今頃はマンションの住人全員が起きるような
事態になっていたかもしれない。
朝になっても戻らないかもしれないと言っていたから、
璃樹がいる間に戻ってくる事はないだろう。

玄関でよく分からない事をブツブツ言っている酔っ払いを
引っ張ってリビングのソファまで運んで、そこに転がした。
顔は真っ赤で、目はトロンとして何を見ているのか
分からないのに、気分はかなりハイらしい。
普段の気取った言動は何処へやら、である。
何かの中毒患者のようだと思いながら、璃樹の傍に立ち、

「……すみません。あたしは何をしたらいいですか?」

寝ているのか起きているのか分からない彼に話しかけると、
うっすらと薄目が開く。
ぼんやりと由乃を視認して、少し間を置いてから答える。

「じゃあ、慰めろ」

はあ、と由乃はなんともいえぬ声を出した。

「……何か嫌な事でもあったんですか?」

璃樹をここまで酔い潰すような事があったのだろうかと
由乃は璃樹を真っ直ぐに見たが、
トロンとした目の中にはっきりとした呆れと驚きが浮かんだ。
顔を上に向け、目の上に手を置き蛍光灯の明るさから
逃げるようにして、

「それ……ボケ?」
「はい?」
「…………いや、いい。
 ……あ、そう。分からないんだ」

馬鹿にされているのか感心しているのか分からない口調だ。
ごろんと仰向けに寝転がり、
あー、とか、うー、とか璃樹は力なく呻く。

「じゃあ水くれ。冷たいのな」
「分かりました」

シンと黙っていたキッチンの電気を点け、
冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して
それを透明なプラスティックのコップに注いでいく。

慰めて、て……何か嫌な事があって優しい言葉を
かけてもらいたいという意味では間違っているのだろうか?
璃樹が気休めの、軽い慰めの言葉を望むようには到底思えない。
もしかして軽い返答をした事が気に入らなかったのだろうか。

いや、そうじゃない。
とにかく今は、早く部屋から出て行ってもらう事の方が重要だ。
明日は月曜日で、当然由乃は学校がある。
やはり少しでも多く寝ていたいと思う。

「璃樹さん。水持ってきました」

頭を軽く抑えつつ、ソファでぐったりとしていた璃樹が
もそもそと顔を上げる。

「あー……その前にさ、電気消してくんない? 眩しい」

言われた通りに電気のスイッチを切り、
代わりに小さなオレンジ色の電気を点けた。

ものの輪郭しか分からないような、最小限の明るさしかない中で
由乃はコップの水を零さないよう慎重に動いて
ソファまで歩み寄った。
璃樹がこちらを向くのが分かったが、暗くて表情は読めない。

「見えますか? 水、ここにありま、」

あります、と全部は言えなかった。
突然、璃樹が素早く起き上がったと思った瞬間、
大きな手で肩を掴まれ、視界が反転した。
コップが手から離れ宙を回転し、水が広がって撒かれる。
床が見えて、「あ、ぶつかる」と何処か遠くで思い、

「――ッ!」

フローリングの床に頬を打ち付けて、声を上げてしまう。
しかし頬の痛みに呻く暇もなく、うつ伏せの背中に
丁度人間一人分の体重が圧し掛かった。
何が起こったのか分からず状況を把握する間もなく
両手を掴まれ背中の方に回され拘束されてしまう。
由乃の細い手首は、両手分のものであっても璃樹の手の平に
すっぽりと収まった。

「い……いた……」

背中に回された両腕は変な方向を向いていて、
璃樹の手に少しでも力が篭ると骨が軋んだ悲鳴を上げた。

少しずつ頭の回転が正常に戻っていく。
うつ伏せの自分。拘束された両腕。
璃樹は由乃の太腿の部分に跨って乗っているので
両足も動かせない。
自由が利かない。
たった一瞬で動けない――抵抗できない状態にされた。


それを理解した瞬間、影の中がざわついた。

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