第3幕/歪み予感 03

「璃樹さん?」

沈黙。
その沈黙は暗かった。

「璃樹さん。えっと……邪魔なんで退いてください。
 あと、腕……痛いんですけど」
「痛い?」

心なしか嬉しそうな声だった。
声と同時に両腕を拘束している手が体重を乗せてきた。

「いたっ!? いたたた、あの、ちょ、痛いですっ」

骨が折れるかも、と思う寸前の所で重みは止まる。
ギ、ギギ、と骨が軋む音が聞こえたような気がした。
加重は止まっても璃樹は由乃の上から退く気配が一切ない。
由乃が何を言えばいいのか迷っていると
首筋に冷たいものが当たった。
それがあまりにも冷たくて、沈殿した暗い気配を感じて、
ただ直感で首筋に当てられているものが銃口だと分かった。

一週間前。
あの眼鏡の少年を殺す為、持ち主の操られるままに
凶悪な弾を吐き出していた銃。

あの時の鋭く耳を打ち、
けれども重く圧し掛かる音を思い出した。
仮想の音が耳の中で残響する。

頭の中が、すうっと冷えた。

しかしそれとは逆に、影のざわつきは大きくなる。

「お前、逃げないのな」
「はい?」

うつ伏せに倒れている由乃からは
璃樹の表情は見えない。
なんとなく――笑っているんだろうなと思った。

「あんなインチキくせぇ能力持った奴に襲われたってのに
 なんで逃げないんだよ。
 怖いだろ? ママんとこ戻ったら?
 オレも桜橋もその方が都合がいいし」
「都合がいいって……?」
「前にも言ったろ。お前みたいな何も分かってない奴が、
 仕事場でウロウロしているだけで迷惑だ。
 ぼーっと自分には関係ありませんみたいな面しやがって」

背筋に寒いものが走った。
思い出す。この青年は父と同じあの職場で働く者なのだった。

「璃樹さん。仕事してないじゃないですか」
「してなくても、オレらみたいなのは自動的に
 巻き込まれていくんだよ」
「言っている意味が分かりません。
 ていうか退いてください。重いし痛いし邪魔です」
「…………」

溜息。
何故か心底呆れたような溜息をされた。

重厚を首筋にごりごりと当てながら璃樹が前のめりに
姿勢を倒したのが分かった。
首をわずかに動かすと整った顔がすぐ横にあって流石に驚いた。

「お前今の状況に何の疑問を感じないわけ?」
「ありまくりですけど」
「……オレの言い方が悪かった。
 この状況で、ヘンな事とか想像しちゃわないの?」

耳に熱い吐息がかかる。酒臭かった。
その声には今までの険が取れていて、
代わりに甘いものが混じっている。

「そりゃあ殺されそうですから」
「お前の中学には保健の授業が無かったのか?」
「え? ちゃんとありましたけど」
「……もういい。言って分からないならてっとり早く――」

と、
璃樹の顔が近付く。
咄嗟に顔を背けた瞬間、耳にピリっとした痛み。

「……ッ?」

耳を、噛まれた。
今まで誰かに耳を噛まれた事などなかったので、
初めての奇妙な痛みに体が震えた。

「分かったか?」

突き立てた歯を由乃の耳から放し、
息を吹きかけるように囁く。くすぐったかった。

「今のオレはお前を殺す事もできるけど――
 こーゆー事もできるんだぜ」

ここまでされて、やっと由乃は気付いた。
それでも由乃は自分でも驚くほど冷静だった。
今からされるであろう事にもあまり驚きはない。
いつも女の人の部屋でこういう事をしているんだろうか。
両腕を拘束していた手はそのままに、
片手に持っていた銃をしまう気配。
璃樹の指が由乃の首筋に触れ、そこからゆっくりと背中を
伝って下へ滑っていく。
腰の辺りで指が止まった。

「怖いか?」

分からなかった。
自分が怖いのかどうか。
ジューダスを出していないのに、全ての出来事が遠くに感じた。 前から自分はこんなにも物事に無関心な人間だっただろうか。
それとも、無意識の内に現実逃避をしてしまっているのだろうか。
外側の疑問より内側の疑問に思考が持っていかれる。

由乃が答えないのを怖がっていると思ったのか
璃樹の手はそのまま由乃の寝巻きに掛けられる。
その時、ボソリとした声が薄暗い部屋に浸透した。

「……     、」
「ん? なんか言っ、――!?」

璃樹が目を見開く。
いつの間にか自分の目の前――由乃の背中の上に
まるで影が立体化したような中型ほどの犬が立っていた。
全てが黒いのに目と口の中だけが不吉に赤い。
ジューダスだった。
しかし“狗”の姿をしていた時のジューダスを見ていない
璃樹は突然現れた黒い狗に驚き、
手が反射的に腰のガンホルスターに伸びた。

「なんだコイツ――」

ただの犬ではない事を悟り、ここが普通の住宅である事も
構わずに銃を向け引き金に指を掛け――
奇妙な硬質の音を立てて狗が銃口の先を噛み砕いた。
それを見て璃樹は手を出したが、手は狗の身体を通り抜ける。

「嘘ッ?」

それこそ空気を、影を相手にしているようだった。
跳ねるように由乃の上から飛び退く。

璃樹が狗と睨み合っている間に由乃が背中をさすりながら
起き上がり、璃樹が触れる事ができなかった狗に
普通に触り「いい子いい子」するように撫でた。

「……何。それがお前の能力の形なわけ」

肩の力を抜き、脱力したように訊く。

「ジューダスです。因みにこの子が許さない限り
 触れる事はできないですよ」
「なんだよ、そいつ」
「さあ……?」

由乃でも分からないので、首を傾げて返事をする。
璃樹は完全に酔いが醒めた目で
値踏みするように由乃とジューダスを交互に見る。
ジューダスは由乃を守るように、前に出て璃樹に向って唸るが、
由乃が「戻れ」と言うと、すぐに耳を垂れて
主人の周りを一周した後溶けるように由乃の影に消えた。

それを見て璃樹も緊張を解いてその場に座った。
なんとなく沈黙。
璃樹の方から謝罪の声が出るかと思ったが気配がないので、
由乃から口を開く事にした。

「……えっと、重くて痛くて邪魔だったので
 強制的に退いてもらいました。
 あと、乱暴されそうでしたので」
「けっ、身持ち固ぇのかよ」

不貞腐れた。
上手くいかない事に苛立っているように思えた。

「……璃樹さん。あたしの事が好きなんですか?」
「はあ?」
「だって。好きな人同時がするものでしょう」
「……お前、今時そんな漫画みたいな考えってねえわ。
 向こうが望んでくるんだし、オレは応えてやってるだけ」

頭痛がしてきそうだったが、由乃は尋ねる。

「……あたしは望んでませんが」
「嫌がらせがしたかったから、分かっててやろうした」

璃樹の手が腰に回った。
また銃でも出すのかと身構えたが取り出したのは煙草の箱だった。
慣れた動作で箱から煙草を一本出して、銜える。
人の部屋で主の許可なく、躊躇なく火を点けた。
副流煙が気になったが、一々突っ込むのも面倒になってきたので
放っておく事にした。
――灰皿ないんだけどな……。

「あたしの事が嫌いなら、関わらなきゃいいじゃないですか」

深く吸って、吐く。勿論由乃のいる方向へ。

「目障りだし」
「視界に入れなきゃいいでしょう」
「どうせ会社で会うだろ」
「だから貴方仕事してないじゃないですか」
「偶にする。オレらはどうせあそこに所属せざるを得ないし」

「オレ“ら”」なのが気になったが、流す。
手を振ってこっちにきた煙草の煙も流す。
なんなのだろう。この男は。
紋胤と勝らずとも劣らず、自分本位自分主義の自由人だ。
もしかしたら何も考えていないのかもしれないが。

「……まるで構ってほしいみたいですね。
 もしかして寂しいんですか?」
「――そんなわけあるか!」

呆れ気味に言っただけの言葉に予想外に大きな声が返ってきた。
驚いて目を丸くする由乃を見て、璃樹はハッとし顔を逸らした。
しかし今の返事も動作も、どう考えでも「そうです」と
認めるようなものだ。

いきなり零れたボロに由乃も黙ってしまった。

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