第3幕/歪み予感 05

知らないアドレスからメールの着信がきた。

『俺のアドレスと電話番号だ。
 ちゃんと登録しておけよ。  律儀に返信してくれなくてもいい。
             璃樹』

「…………」

由乃はどうやって自分のアドレスを調べたのか、
という内容を返信した。

どうやら偶然引っ掛けた少女が由乃の友人だったらしい。
とりあえず損もありそうな気がするが得もあるだろうと
璃樹の携帯の情報を登録しておいた。

× × ×

胡散臭いおっさんに接触されたら、逃げろ。

紋胤からそう言われから二週間後、
胡散臭いおっさんが現れた。





紺のシャツに灰色のパーカー。
ボトムスは安物のジーンズ。
髪を結わえるのは黒いゴム。
相変わらず華やかさとは遠い服装の由乃だが、
本人はやはりこちらの方が落ち着くと思っていた。

日付はゴールデンウィークが終わった後の最初の休日。
ゴールデンウィークは高校の友人と都心の繁華街へ出掛け、
崎と富太郎と紋胤で四駅先の公園へ出掛けた。
それ以外は特に何もない連休だった。
公園の池でボートに乗り、アヒルを見付けた崎が
「あ、アヒル!」と思わず立ち上がってしまい
ボートがひっくり返り転覆したが大事には至らなかった。

そこそこに平和な連休を過ごしていたと思う。
警戒はしていたがあの少年が接触して来る様子も無い。
休日の間、紋胤は仕事がなかったらしくずっと家にいたが
由乃はなんとなく気まずくて訊きたい事が一つも聞けなかった。
そもそも何が訊きたいのか自分でも分からない。
ただ胸の内に黒い靄があり、それが内側から引っ掻いてくる。
気にするほどでもないが、
だからといって全く気にならない程度の物でもない。
理由も分からず苛立ち、焦ってしまう。
これは何かが分からないまま連休は終わり、
紋胤はまた仕事に駆り出される。

異様に多い仕事の量。
自分以上に苛立ち焦った様子の父親。
心に広がる黒い靄。

由乃にはまだ分からなかった。
黒い靄の正体が“嫌な予感”だという事に――



「♪ラ・ラ・ラン・ラ~」
「?」

夕食の買出しに出掛けた由乃の耳に歌が入ってきた。
歌なら近くのスーパーからも流れてくるが、
それが特別に由乃の意識を傾けさせた理由は――
――あたしの方がまだ上手い……。

その歌声がことごとく音程を外していたからだ。
外されたリズムは、寧ろ安定したリズムよりも人の耳に残り、
集中をそちら側へ向けてしまう。

「♪ラ・ラ・ラビュー・アイラビューン」

声は中年と思える男性の声だ。

「♪人類皆兄弟~、僕も君も兄弟~。
 ♪愛し愛され愛の世の中。
 ♪そう僕も君を愛してるぅ~」

――変な歌詞……。

スーパーから出てきた由乃は首を回し音源を捜してみる。
そして唐突に異常に気が付いた。
気付いた時には遅かった。

夕暮れのスーパーの前には主婦を始めとした多くの人がいる。
それだけなら当たり前の光景なのだが、
問題はそれた全ての人々が由乃の方へ背を向け、
由乃から離れるように去っていく。
振り向くと、スーパーの中にいた人々はスーパーの奥の方へ
歩いていく。
可能な限り、由乃から遠ざかるように人々が動いていた。
人が、いなくなる。

――あ。この状況、やば。

この場から逃げ出そうとした、その瞬間。

彼は堂々と由乃の前に現れた。

「アイラビューン!!」

目の前に赤い色が広がった。
鮮やかな赤ではなく、少し黒を混ぜたような、
しかし暗いというよりは落ち着きのある赤だった。
薔薇の花。
十数の薔薇が由乃の前にあった。

「え? ……え?」

唖然となるしかない。
去りゆく人波の中から二人の人物が現れた。

片方は由乃に薔薇の花束を差し出している中年の男。
服の趣味が紋胤とは違う方向でおかしく、そのTシャツには
でかでかと「埋没」と書かれていた。
無精ひげを生やし、だらしのない印象のおっさんだ。

もう片方は由乃より小さい、まだ小学生と思しき少女だった。
ランドセルを背負っていてその手は男のズボンの裾を
しっかりと握っており、
何故かその顔は車に酔ったかのように真っ青だった。

「……アイラビューン!!」

男がもう一度叫んだ。そんなに叫ばなくとも聞こえる。
大人の男が薔薇を少女に差し出し「アイ・ラブ・ユー」と
言っているのに誰も気に留めない。
歯牙にもかけない、というわけではない。
まるで気付いてすらいないようだった。

「あの、ええと……ごめんなさい」

とりあえずそっと薔薇を押し返し断っておいた。
男は薔薇をそっと自分の方へ戻す。
見てみると吃驚するほど薔薇の似合わない男だった。

「ん? お嬢ちゃん、薔薇は好きじゃなかったかい?」
「や、そうじゃなくて」
「じゃあもっと可愛らしい花を出してみようか!」

聞いてない。
由乃が「もう逃げちゃおうかな」と思っていると、
男は薔薇の花束を持っていない空いた手を
由乃の前に差し出す。

「種も仕掛けもあるけど、教えないからねー」

そう言う男の手の中には、いつのまにか赤い花があった。

「……えっ」

由乃も声を上げて驚いた。
由乃は差し出された手を見ていたはずだが、
赤い花がいつ現れたのか全く分からなかったのだ。
その花の赤は、単に赤と称するにはあまりにも赤い。
鮮烈過ぎる赤色はこの世の物ではないように感じた。
見たことも無いので名称も分からない。

「どう? 吃驚した?」

男は、今度は赤い花を差し出しおどけたような顔をする。
由乃が反応に困っていると、
男は聴かれてもいない事をべらべらと喋りだす。

「いやあ、前は木春(きはる)が迷惑掛けちゃったみたいだねぇ。
 これでチャラにしてくれとは言わないけどね、
 せめてもって事でこの花受け取ってくれるかい?」
木春。
羽佐間木春。
それは数週間前に由乃と富太郎を襲った少年の名前だった。

突然見知らぬ男の口から発せられた知った名前に
由乃が驚いていると、
男はニカッと笑った。

「はーじめまーしてー、染井由乃ちゃん。
 どうも、君のパパとママに因縁アリアリなおっちゃんです」

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