第3幕/歪み予感 07

普通じゃない。
どろどろした油が人間の皮を被っている。
油断して近付いたら油が付いて火を放たれそうだ。
紋胤とは違った暗さ。
紋胤が闇の中で一人立っている人間なら、
この辰三という人物は動く闇のようだった。

由乃の本能がそこまで警告を鳴らすほど不気味な人物は、
しかし由乃の想像とは全くかけ離れた朗らかさで笑った。
見た目だけならそこら辺にいる中年男性と変わらない。

「どーどー。そんなに固くならないでくれよ。
 まずはお互いの事をもっとよく知る為に、
 ちょっとそこに座っておじさんとお話しようぜえ?」

子供を誘い出す犯罪者の常套句のような事を言って
近くの花壇の縁を指差し、
動かない由乃を置いてさっさとそこへ移動してしまう。
幼い少女――赤音は辰三が動くと慌ててズボンの裾を掴む
手に力を入れて、よたよたとついていった。
まるで辰三から離れると死んでしまう、というように。
辰三は赤音を花壇に座らせると、彼女の頭を撫でながら、

「ちょっと待っててなー。俺ジュース買ってくるから」

たったそれだけで赤音が顔を絶望的に歪めた。
由乃の前で初めて口を開く。

「ええっ。や、やだ。わたしも先生と、い、一緒に行く」
「赤音は俺が戻ってくるまでこのお姉ちゃんの見張りだ」
「ふっ、二人きり! いいよ、ジュース、な、なくてっ」
「いやあ、俺喉渇いちゃったんだよね。
 赤音の分も買ってきてあげるからさー。ファンタグレープ」

ファンタグレープ、と聞いて少女が一瞬言葉に詰まる。
それから何かを言いたげにあうあうと口を開閉させていたが、
やがて諦めたように言った。

「……分かった。わたし、いい子で、み、見張ってる」

由乃としては色々突っ込みたかったが、この瞬間赤音が
一歩成長したような雰囲気が二人の間に流れているので
不用意に言葉も挟めなかった。

「よしよし、いい子だ。偉いぞ」

そう言って辰三が混ぜるように赤音の頭を撫で回すと、
ふっと今まで歪みっぱなしだった赤音の顔が緩み
ほんの僅かだが嬉しそうに笑ってみせた。
顔は相変わらず血の気が引いて青白いが、普通の子供に見えた。

「由乃ちゃんは何がいいかなー?」
「……あたしはいいです」

強制されるかと思ったが辰三はあっさりと「そうか」と言って
既に人の見当たらなくなってしまった夕暮れの通りを歩いていく。

辰三が角を曲がってしまい、その姿が見えなくなる。
途端に幼い少女は顔を引きつらせ、
まるでおぞましいものでも見るような目で由乃を見る。br> 視線を逸らしたくて仕方無さそうだが「いい子で見張る」という
辰三との約束を守らんが為に必死に由乃を見ていた。
自分よりも年下の小学生にそんな目で見られている由乃としては
非常にいたたまれないのだが。

彼女の髪の毛は腰に届くほどで、真っ黒で真っ直ぐだ。
それを中央分けして背中に流しているので
平安の貴族の娘を思わせる容貌だった。
将来が期待できそうだが、残念ながら性格に灘がありそうだ。
背中に背負っているランドセルには教科書が入っていない。

沈黙が続き、赤音はまるで冷凍室の中にいるかのように
体をガタガタと震わせている。何かの中毒のようにも見える。
とにかくこの子を落ち着かせてあげよう、と思い
由乃は話しかける事にした。

「……別に逃げたりとかしないよ」
「ひっ」

ナイフを突きつけられたかのような声を上げられた。
話しかけただけでこの反応。流石の由乃もショックだった。

「気分悪いの?」

またあうあうと口をプルプルと動かす。
それでも一応答えようとしてくれているらしく、
なんと言おうか迷っているようだった。

「き、気分、悪い」
「……えっと、なんで?」
「人がいるから……」
「え?」

赤音は足を曲げてそれを抱えるようにして丸くなった。
顔色は遂に血が巡っているかどうか
疑いたくなるほどになっていた。

「き、きらいなものがいたら、気分が悪くなる、でしょ」
「まあ、そうかもしれないけど……」

辰三が先ほど赤音を「ヤバいくらいの人嫌い」と言っていたのを
思い出す。それでもこの反応は過剰ではないか。
そもそも人が嫌い=人間である由乃も気持ち悪くなるほど嫌い、
というのはまるで存在を否定されているような気分になる。

由乃がかける言葉を思いつかずにいると、
以外にも赤音から口を開いた。
話しかけたというよりは、独り言のようだったが。

「……殴る腕が嫌い。蹴る足が嫌い。罵る口が嫌い。
 話を聞かない耳が嫌い。粘つく血が嫌い。
 冷たい背中が嫌い。汚い爪が嫌い。見下す目が嫌い……」

ぞっとした。
およそ普通の小学生が言うような事ではない。
こんな幼い子が考えるような事ではない。
由乃を見続ける赤音の目は何処までも淀んでいた。
一体どのような経験を経ればそんな濁った目ができるのか。

「貴女、一体……」
「おっまたせー! 赤音いい子にしてたー?」

辰三がペットボトルと缶コーヒーを持って戻ってきた。
すると迷子の子供が親を見つけたような顔で
赤音が顔を上げ、泣きそうな顔で辰三を見た。

「せ、先生。わたし、見張りできたよ」
「おう偉いぞー。いい子いい子ー」

辰三が先ほどと同じように赤音の頭を撫でると
少女は心底安心したように辰三に抱きついた。
辰三も特に振り払ったりするような真似をせずにそのまま
花壇に座り缶コーヒーを開けた。

「由乃ちゃん。座らないのかい?」
「いいです。お構いなく」

なるべくこの人には近付きたくない。

辰三は気分を害した様子もなく、笑顔を浮かべた。
赤音にファンタを渡す。

「あの」
「ん?」
「その子は……赤音ちゃんは」
「ああ、赤音は俺の子供じゃないぞ。
 一年前に拾ったんだ」
「拾、った……?」
「勘違いしないでくれよん。ヘンな意味じゃなくて、
 引き取ったんだ、俺が。見付けたんだよ。
 まあ赤音の事になると長いから、他の話をしようよ」

なんでもない事のようにさらりと言い放つ辰三。
いっそ子供のように無邪気そのものだった。

「さて、何から話そうか。
 そうだなー……うーん」
「…………」

別に聞きたくもなかったが、
言動と比べて逃げ出すような隙もジューダスを仕掛けるような
隙も全く見当たらない。
一体どんな話を聞かされるのだろう、と思っていると
彼の口から予想外の話題が飛び出した。

「君はお父さんをどのくらい知ってる?」

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