第3幕/歪み予感 09

当然のように現れた蕗時はいつも通りの穏やかな笑みを
浮かべていたが、今はそれに凄みがかかっていた。
先ほどの画像の紋胤とは違った凄惨な笑顔を
由乃は“近い”と感じ怖気が走った。
何故だろう。全てが遠いこの感覚の中で蕗時は
普通に存在し、近かった。

「ふ、きじ、さん……」
「到着が遅れてしまい申し訳ありません。
 お怪我は御座いませんか?」

後退りしかけた由乃の手を取り、怪我がないか
確認してくる。
たったそれだけなのに、由乃は無性に逃げ出したくなった。

「おいおい、止しとけ。由乃ちゃん怖がってるだろー」

先刻以上にガタガタと痙攣なのではと思うほど震え上がっている
赤音の頭を撫でながら、辰三がからかうように言う。

「貴方に言われたくありません。
 ――この通り一帯に人払いの結界を張っていたのは、
 そちらの方ですね。隠し子ですか?」

慇懃無礼な態度で辰三にザックリと言葉を投げかける。
口を動かしながら蕗時はさりげなく由乃を守る位置に
移動する。

「違う違う。赤音は仲間。攫ってきたとかじゃないぞ。
 コイツが望んで俺の元に来たんだ」
「どうせまた貴方の元に行かざるを得ない状況に追いこんで
 引きずり込んだのでしょう」
「せ、――先生を、悪く、いっ言うな!」

赤音が悲鳴のような大声で反論する。

「わ、わたしは、行きたくて、行ったんだもん。
 先生は、わたしを助け、て、くれたんだもん……」

威勢が良かったのは初めだけで後はどんどん言葉が
尻すぼみになっていく。
最後には泣きそうというか、吐きそうな顔をして
辰三の胸に顔を埋めてしまう。

「……とにもかくにも、茸宮様にはお引取り願います。
 そして今後二度と我々には関わらないようにして頂きたい」
「ハッ。つれないねえ。いや、蕗時とはつれなくてもいいけど。
 俺が用あんのは紋胤と、その娘なのよ。
 用無しは外野で眺めてろ」
「Q・M・Co.の社員が関わるならわたくしは内野です」
「ふーん……相変わらず名雪ちゃんの下僕か」
「ええ、そうですよ。今日は嬉しい命令を頂きました。
 ――敵意があるなら殺(や)っちゃってもいいわよ、と」

蕗時が名雪の声真似をしてその内容を告げた瞬間、
辰三が赤音のランドセルを開けて手を突っ込んだ。
取り出したのは映画などで見かける――導火線の付いた赤い筒。
蕗時が止める前に辰三はライターで導火線に火を点けた。

途端に小さな火花が連続して弾け、大量の煙が視界を奪った。

「うぁっ……」

咄嗟に顔を覆ったが、すぐ傍から蕗時の声がかかる。

「落ち着いて下さい。ただの煙幕です」
「ダイナマイトかと思った……」

顔を上げるとそこに辰三と赤音の姿はなかった。
煙幕と花火の音のせいでどちらに逃げたのかは分からない。

「染井様。影を戻してください。結界が解かれました。
 おそらく人混みに紛れて逃げる気でしょう」
「……分かりました」

無数の槍の形をとっていた影は崩れ、
平面に戻り由乃の影としての形を取る。
途端に普通の感覚と言うものが襲うように戻ってきた。
悔しかったのか影の中でジューダスが唸っているのが分かる。

風が吹き、煙が飛ばされていく。

「わたくしは茸宮様を追いかけますが……、
 染井様はいかがなされますか?」
「……二人がどっちへ逃げたか、分かるんですか?」

由乃は音と煙のせいで二人の足音すら逃してしまったが、
どうやら蕗時は見当が付いているらしい。

「ええ。わたくしは一応プロですから。
 染井様も訓練すればこの程度はなんの妨げにもなりませんよ」
「……前から思ってたんですけど……秘書なのに
 秘書がやる事じゃない事もしてますよね?」
「ああ――秘書というのは、まあ建前です」

意味深な事を言いつつ、しかしそれを追求させない
笑顔を浮かべる。

「それで、共に追いますか?」
「……行きます。
 あの人は、危険だと思うんです」

由乃の返答に満足したように頷くと、蕗時は背を向けて
走り出す。由乃も慌ててその後ろを付いていった。



ジューダスを使った後は物凄く眠くなるというのを失念していた。
今回は派手に使ってはいないのですぐに倒れて眠る、という事は
なかったが、それでも精神的な疲れは同じように重い。
先ほどからずっと走っているのに全く減速する気配の無い
蕗時の後ろを必死で走りながら、由乃は自分に鞭を打つ。
いっそ走りながら眠れそうだった。
意識が散漫としていたので、蕗時が急停止したのも気付かずに
スーツの背中にぶつかってしまう。

「大丈夫ですか?」
「は、はい。ごめんなさい」

鼻を押さえながら、由乃が頭を下げる。

「どうかしましたか?」
「いえ。ただちょっと不穏な気配を――」

全て言い切る前に蕗時が唐突に由乃を抱き寄せしゃがんだ。
驚く由乃の前方斜め上に向って傘を開く。
蕗時が傘を開いた一瞬後に――銃声が響いた。
一つや二つではない。前の方から一斉に銃弾の波が押し寄せた。

「え――」

ボボボボッと雨が傘を打つ音をもっと重くしたような音。
蕗時の傘が銃弾を受け止めているのだと気付くのに
数秒経ってから気付いた。

「ケブラーの特注品です」

銃弾を嵐を受け止めているというのに蕗時の真っ直ぐ伸びた腕は
水平に保ったままびくともしない。
由乃はこの人が本当に人間なのかどうか疑いたくなった。

やがて銃弾は止み、前の方で何か硬質のものを捨てる
ガシャリという音がした。

「弾切れのようですね」

蕗時が宣言するように誰かに向って話しかけると、
前の方の路地裏の角から幼い少女が現れた。赤音である。

「いくら結界を張りなおしたとはいえ、街中で銃を使うとは
 感心しませんね。やはり貴方の“先生”は馬鹿です」

聞いているのかいないのか、辰三の事を馬鹿にされても
何も言い返しては来ない。
そこで由乃は赤音の様子がおかしい事に気が付いた。
ずっと真っ青な顔で、人間を見るだけで震えていた赤音が
震えもせずに、ただ普通に立っている。

「赤音ちゃん……?」

由乃が困惑していると、蕗時が「おや」と声をあげた。

「貴方……先ほどの少女ではありませんね。
 これは面白い。二重人格という奴ですか?」
「正確に言うと違うよ。自分と赤音は重なってない。
 自分と赤音はまったく別の人格だから」

先ほどの赤音からは想像もつかない明るい声だった。
赤音の姿をした“誰か”はランドセルから
手榴弾を取り出しながら、やはり朗らかに喋る。

「赤音は辰三の為に君らを撒く覚悟を決めたんだ。
 ただもう人を見るのは限界らしくて、自分にバトンタッチを
 したんだけどね」

手榴弾と言う危険物をまるでボールのように弄びながら
目の前の少女らしきものは言う。

「ただ君らが大人しく引き下がるというなら、
 コレは使わないであげる。
 蕗時って人も、それの方が後々主人に迷惑がかからなくて
 いいんじゃないかな?」
「ならそれを使わせずに貴方を倒すまでですが」

蕗時は不適に笑って見せた。
傘を閉じつつ、

「染井様。今の状態でジューダスを使うのは体に過大な
 負担がかかります。ここはわたくしにお任せ下さい」
「!」

由乃は驚いて蕗時を見上げた。
影を走らせようとジューダスを蠢かせたのがバレたのだ。
――なんで……。
由乃の思案をよそに蕗時は傘の持ち手に手を掛けて、
そこを三回ほど捻る。
先の曲がった持ち手はカチカチと音を立てながら回り続け
やがてカチンと鍵が外れたような音をたてた。

柄と持ち手が外れ、その間から銀色の輝きが漏れた。
由乃と赤音(?)が驚いて見守る中で“それ”は完全に
傘の柄の中から抜かれる。

真っ直ぐ伸びて光を反射する銀色のそれは――日本刀。
蕗時は普段持ち歩く傘に防弾だけではなく、
刀までも仕込んでいたのだ。

赤音の顔に緊張が走ったが、それでも笑いながら
手榴弾のピンに指をかける。

「君が自分を斬るより、このピンが外れる方が早いよ」
「さあ。それはどうでしょう」

鞘となっていた傘を地面に置いて、
蕗時は開いた手でサングラスを取った。
初めて露わになる蕗時の目に由乃の注意はそちらへ向き――

垂れ目だった。

「…………」

なんとなく予想外だったので由乃は状況も忘れて
ポカンとしてしまった。
素顔の蕗時は穏やかな人物そのものといった様であるが、
やはりというか、男女の区別がつきにくい容貌だ。

「それでは、行きますよ」

サングラスを外しても垂れ目でも、凄みのある雰囲気は
何も変わらず圧し掛かってくる。

「やってみなよ」

なんの警告もなく赤音が腕を引き、指に力を込めた。
由乃は蕗時に言われた事も忘れて咄嗟に自分の影を立体化し
“影の壁”を作った。
蕗時の分まで作れなかった事を詫びながら――

影の壁が作られる一瞬前、
蕗時の目がほの青く光ったのを見た気がした。

手榴弾が地面に落ちた音。
由乃は瞼に力を込めたが、いつまで立っても衝撃は来ない。
また先ほどのように煙幕だったのだろうか――そう思って
目を開けたその時、

「――あああぁぁああぁあ!!」

絶叫。
聞く者の心臓を締め上げるような絶叫が響いた。

「え、え?」

影を解き、赤音を見遣ると、
彼女は顔に手を当て、髪を振り乱し苦しんでいるようだった。
何が起こったのか分からなくて蕗時を見ると、
既にサングラスを顔に掛け直していた。
刀には何も付いておらず、そもそもその場から動いた様子も無い。

「ふ、蕗時さん。何が起こってるんですか?」

問いかけると、蕗時は日本刀を鞘である傘の柄の中に戻しつつ、

「――悪い夢でも見たのではないでしょうか?」
「え? どういう――……あ」

ふにゃりと膝の力が抜け、前のめりに倒れそうになり、
横から蕗時の手が伸びて由乃を受け止めた。

「染井様?」
「……すみません、もうだめ。眠――」

一度でもジューダスを使ったら物凄く疲れるのに、
それに耐えて、更に二度も使ってしまったのだ。
猛烈な疲れと眠気が一気に体を蝕む。

抵抗する間もなく、闇が手招くままに由乃の意識は落ちた。

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