第4幕/歪み不安定 01

どろりとした闇の睡眠から意識がゆっくりと浮上する。
何もかも曖昧で、感覚だけが遠い国へ行ってしまったようだ。
全てが遠いこの感覚は――黒い狗を使役している時と
とてもよく似ていた。
そんな事をうっすらと考えていると
意識が現実に定着し、味覚を除いた五感が一気に情報を
脳へ送り届けてきた。
その中でも視覚が捉えた周囲の状況はかなり衝撃的だった。

三十を超える窪んだ眼窩が、広がっていたのだ。

「…………!?」

不完全な衣服をまとい無造作に転がされた、マネキンだった。
中には色鮮やかに染め上げられた髪を持つものをあったが、
全てのマネキンは眼球が無く、球体関節の人形だった。
壁際にキチンと立たされているものもあるが、
大半が床に倒れ、折り重なっていた。
勿論こんな衝撃的な部屋は全く知らない。
混乱しかけた由乃に声をかけられた。

「起きたか」

声を辿って視線が動き、思わずあっと声を上げる。
マネキンを押し退け壁に寄りかかるようにして紋胤がいた。

瞬間、由乃の中で眠りに落ちる直前の出来事が
物凄い速さで再構成した。
何よりも強く印象的に脳裏を掠めたのは
死体の山と血の海の中で嗤う紋胤。
背中を虫が張っているかのような怖気に襲われ
由乃は無意識に身構えた。
しかし彼の方はそんな由乃の様子を別の意味で解釈したらしく
「あー」と気の抜けた声を出しながら欠伸をした。

「衝撃的光景だと思うが、まあ落ち着け。
 ここは崎の部屋だ」

バーテンダーのような格好の紋胤は部屋の隅から立ち上がり、
マネキンを踏まないよう隙間を縫いながら由乃の寝ていた
ベッドまで歩いてくる。
由乃は近付いてくる父親につい
鎖鎌を持っているのでは、と想像してしまう。
けれど現実の彼は鎖鎌を持っていない。テンション低く
探るように慎重に声をかけてくる、いつも通りの父親だった。

「気分は?」

首の後ろを掻きながら短く問う。
由乃は首を横に小さく振ってから「平気」とだけ答えた。

「倒れる前の事は覚えているか?」

それをたった今思い出し目の前の彼に恐れを抱いているのだが、
なるべく不審に思われないように振舞った。

「覚えてる」

記憶が正常であるという返事をしたのに紋胤は顔をしかめる。

「……辰三のクソ野郎に会ったんだな」

唾棄の思いを込めて辰三の名前を言う。
由乃は辰三が「自分の顔を見た瞬間殺しにかかる」と
言っていたのを思い出した。
父親が誰かに明確な殺意を持っているという事実に
やや複雑な思いを抱いた。

由乃が怖がっている事を悟った紋胤はわざとらしい
咳払いをして、漏れていた殺意の空気を消した。

「で、お前が気を失ってからだな――」
「紋ピー。シノちゃん起きたのー?」

部屋のドアの向こうからの底抜けに明るい声。
ドアを開けて入ってきたのは凹凸豊かな体を白衣に包み、
眼鏡を掛けた女性――日車崎だった。
元気な笑顔を浮かべる彼女はそこだけ見れば魅力的だが、
その笑顔で人形を当たり前のように踏みつけて歩く姿は
かなり不気味に見える。
崎は由乃が起きていると見るといなや抱きしめてきた。

「よかったー! シノちゃん全然起きないから心配したよーっ」

真っ直ぐな思いやりはありがたいが、崎の豊満な胸に
顔を押し付けられていると呼吸をする隙間がなかった。

「崎。由乃を窒息させないでくれ」

紋胤に窘められて気付いた崎が「あ、ごめんねぇ」と
由乃を開放する。

「本当によかったぁ。熱は下がったみたいだけど、
 まだ寝てた方がいいよ?」
「……熱?」
「ん? シノちゃんは風邪で倒れたんだよー、覚えてない?」

返答に困っていると、由乃が何かを言う前に
紋胤が言葉を滑り込ませた。

「俺は仕事あったし、風邪で寝込んだお前を崎に預けたんだ」

どうやら気絶している由乃の世話をそのでっちあげで
崎に任せたらしい。本当の理由は一般人である彼女には言えない。
しかしそんな嘘を言うくらいなら会社に預ければよかったのでは
ないだろうか。由乃が気を失ったその場には蕗時がいたというのに。
疑問を一先ず呑み込み、由乃は紋胤に合わせる。

「そうだったんですか。崎さん、ありがとうございます。
 もう大丈夫そうなので自分の部屋で寝ます」
「そう? まあ自分の部屋の方がゆっくりできるよね。
 ごめんねぇ、私の部屋散らかってて」

散らかっているとかじゃないと思う、コレは。
心の中でそっと呟きながらもう一度部屋を見回す。
そこでふと、さっきは気付かなかったものが壁にあった。
マネキンのインパクトが強すぎて見過ごしたようだが
部屋の壁には大量のメモが貼り付けてある。
そこには何処に何がしまってあるか、何を買いに行くかなどの
普通の一見普通の内容が書いてあったが
その中の一つに「染井由乃」――自分の名前があった。

『染井由乃(シノちゃん)
 四月に紋ピーの部屋にやって来た彼の娘――』

続きには自分の年齢や外見などが書いてある。
よく顔を合わせる自分が何故備忘録として書き留めてあるのか、
不思議に思ったが、それを素直に訊ねるのは抵抗があった。

「じゃあ、面倒かけたな。そろそろ帰るわ」
「気にしなくていいんだよー。泥臭いなぁ」
「それを言うなら水臭いだ」

ある意味ジャストタイミングで紋胤が帰ると言い出した。
立ち上がったバーテン服の背をベッドから降りて追う。

「じゃあね、紋ピー。今度何かおごってねー」
「気にしなくていいんじゃなかったのかよ……」
「あ。あと新しい服、来週にはできそうだからー」
「おう」

紋胤は右手をひらひらと振って玄関から出る。
崎へ頭を下げて由乃も玄関へ向う。
あの部屋だけではなく廊下から玄関までメモは張ってあった。



「色々聞きたい事があるだろ。崎について」

崎の部屋のドアが閉まったタイミングで紋胤が開口一番に言った。
確かにあんな部屋を見てしまったからには少なからず興味を
抱かずにはいられない。
しかし一瞬の逡巡の後、由乃は首を横に振った。

「……聞かなくてもいい事なら聞かない」
「聞きたくないってか」

その言葉に少しだけ肺が苦しくなった。
全く興味がないと言えば嘘になるが、
積極的に聞きたいとは思えない。
よくしてもらっている隣人の表面より奥を覗くのだと思うと
「だったら知らなくてもいい」と思う自分がいた。

「――今のままでもそれなりにいい付き合いが出来る。
 変に相手に好奇心を寄せて内側を知って、見方を変えたくない」

突然紋胤が淡々とした口調で言った言葉が
由乃の中の芯を掴んで大きく揺さぶった。
驚いて見上げると口調とは逆にふっと微笑むような顔があった。

「そんなところなんだろ」
「…………あ」

今まで自分でも分からなかった自らの複雑な感情の形が
いきなり見えたように思えた。

人付き合いの際に、相手と線を引きたがる。
由乃自身、それには気付いていたがその理由のはっきりした形は
よく分からずにいた。
線を引いているのに、何処に線を引いているのか分からない。
それはとてもあやふやだ。だから、
――璃樹さんに、あんな事を言ってしまった。
先日。酔った璃樹に勝手に部屋に上がられた挙句押し倒される
という事があったのだが、酔っていたからかだろうか
彼は自分の深部を表に出してしまった。
それに反応して由乃は慰めの言葉をかけた。
璃樹はそれ以上そこに触れてほしくないようだったから
気付かないふりでもすればよかったのに。

考えを現実に戻し、由乃は口を開く。

「そうなのかも……知ったせいで崎さんとの関係が
 壊れるとは思わない。思わないけど嫌なのは……
 あたしの見方が変わるから、なのかな……」

言ってから、自分の本心がふっと口から出た事にまた驚いた。
自身に戸惑い始めた娘を紋胤は呆れ顔で笑い、

「まったく、お前は昔の俺か」

苦笑するように呟いた。
だが急に顔が真面目なもの変わる。

「けどな由乃。お前は俺みたいになるな」

その声が含む誠実さに、
由乃は別の姿の彼を思い出してしまう。
血の海、死体の山、嗤う紋胤。
あれが紋胤の本性だとしても、
目の前の彼の目に浮かぶ誠実さが嘘とは思えなかった。

戸惑う由乃の前で、またも唐突に紋胤の表情が変わる。
一瞬前の真面目さがなかったかのように顔を弛緩させた。

「じゃねーと、俺みたいに幸せになれないぜ」

幸せ。
その単語が彼の口から出てくるのは予想外だった。
驚きの連続に考えが散乱しそうになるが、
それを止めてくれるかのように紋胤が提案する。

「腹減ったろ。話の続きは『猫のひげ』でするか」

今日の紋胤は表情がくるくると変わる。
それに引き込まれるように先ほど本音を吐露した自分も、
少し調子がおかしいのかもしれない。
戸惑わずにはいられないが、ここで終わりにしたくないと
思う自分が奥の方にいた。
また一つ形の分からない感情が現れたが、
それの答えが父親の中にある気がして
由乃は返事も聞かずに階段へ向う紋胤の背を追いかける。

それは「きっかけを掴んだ」と呼ばれるものだが、
きっかけを掴んだ事も、何のきっかけなのかも、
由乃は気付かないまま階段を下りた。

→ 次へ