第4幕/歪み不安定 02

「紋胤。アンタそんな格好してると働かせるよ」
「豆挽いたりコップ拭いている俺はさぞかし様になるだろうが
 ガラじゃないね。つかバーテンは喫茶店じゃなくねえか」
「その顔なんだから突っ立ってるだけで客寄せにはなるだろ。
 ま、それ以外の活用法は思い付かないがね。
 聞いてるよ、アンタ家事は由乃がやってくれてんだろう。
 手伝わない男のする事は掃除機の先に立たない事だ。
 璃樹をヒモだの寄生虫だの言ってるけど私から見りゃアンタも
 大して変わらないね。聞いてるかい? 本当に働かせるよ?」
「……あんたの口にはモーターでも付いてんのか?」

キャットウィスカー・マンション一階の喫茶店『猫のひげ』に
入店すると、バーテン服の紋胤を見た東雲が
すぐさまギロリとした視線で言いたい放題言ってきた。
東雲相手では口の悪い紋胤もあまり強く反抗をしない。
だが紋胤でなくとも東雲には相手を逆らわせない何かがあった。

窓側一番奥の席に座り、メニューを見ていると
元気な声がかけられた。

「あ、由乃ちゃん! 久しぶりーっ」
「えっ……か、篝火先輩?」

ウェイター姿の富太郎だ。
この店のアルバイトである富太郎がここにいても全く不自然は
ないのだが、由乃にとって彼の登場は予想外の物だった。

彼は二週間ほど前に由乃と、――羽佐間木春という名の
少年が鉢合わせになった際にその戦いに巻き込まれた。
途中で気を失った彼は「お任せ下さい」と言う蕗時に
連れて行かれ、その後店でも学校でも会う事がなかった。
あんな事があったのだ。引っ越したのかもと
思っていた。それ以前にあの会社の事だ。記憶操作くらい
されているのかもしれないと心配しつつも、
これ以上の付き合いは止めておいた方がいいのかもしれないと
散策をしていなかったのだが――

富太郎は二週間前とまったく変わらない笑顔で
テーブルへやって来た。
そのニコニコ笑顔を呆然と由乃は見る。

「先輩……どうしてここに……?」
「え、ええ? ぼく、ここにいちゃいけないの!?」

大袈裟に由乃の一言を受け止めて『ガーン』という文字が
背後に見えそうなくらい分かりやすいリアクションを取る富太郎。

「いえ、そうじゃなくて……えーっと、ここ最近
 ここにも学校にもいませんでした……よね?」

いきなりあの日の事を持ち出すのを避けて控えめに聞く。
富太郎はパッと顔を上げて、数秒前とは打って変わった
明るい笑顔で、

「学校には今週の水曜日から来てたよ。
 それまでは……二週間くらい前からずっと体調が悪くて」

嫌なものを思い出したのか笑顔から風船がしぼむように
明るさが抜けていく。

「ふうん。風邪でもこじらせたか?」

それに返事をしたのは由乃ではなく興味深そうに
目を細めた紋胤だった。
聞かれたら分からなくてもすぐ答える富太郎が
珍しく返答に詰まり、困ったように注文表を弄る。

「……えっと、誰にも言わないでくださいよ?」

窺うような目で質問した紋胤ではなく由乃を見る。
由乃は慌てて首を縦に振った。
紋胤も「言わねーよ」と先を促す。

「実は……入院、してたんです」
「入院、ですか」

富太郎の身柄は蕗時……Q・M・Co.が引き取った。
病院にいたと言う事もおかしな話でない。

「ぼく、二週間前に道端で急に倒れちゃったみたいで、
 と言ってもそこら辺の記憶全然ないんだけど……
 目が覚めたら病院で、元気だし特に悪い所もないけど
 体調を見たいからって一週間以上入院させられて……」
「…………」

――記憶が、ない。
由乃はその事実を、慌てずゆっくりと浸透させるように
呑み込んでいく。
先ほどからの富太郎の態度を見るに、
あの日の交戦に関しての記憶は完全に欠落しているようだ。
記憶操作など冗談みたいな推測ができるのも、
由乃自身が記憶操作以上の冗談みたいなものを引きずり歩いて
いる存在だからだった。
見れば紋胤は妙に納得したというような顔をしている。
恐らく由乃の推測は的外れではないのだろう。
由乃の沈黙を別の意味で受け取った富太郎が
慌てたような声を出した。

「でももう大丈夫だから! 今日からまたバイト再開だしね。
 あ、そうだ。ご注文はお決まりでしょうか?」
「俺、エスプレッソ」
「あ、えっと、あたしは卵サンドウィッチとミルクティーを」
「了解です。しょーしょーお待ち下さい」

富太郎が店員という立場を思い出し、注文表を書き込んで、
くるりと背を向けてカウンターへ向う。
去り際、ポツリと声を零して。

「……心配してくれたんだよね。
 由乃ちゃん、ありがとう」

えへへ、と嬉しそうに言いながら。
――心配……心配、か。
由乃は胸中で考える。確かに心配はした。

けど、富太郎にあの時の記憶がないと知って、
何故か安堵している自分がいる。
富太郎の無事は安堵すべき事だが、
ここはもっと衝撃を受けるべき場面ではないのだろうか。

「Q・M・Co.は記憶のちょっとした操作くらいなら出来るぜ」

紋胤がワイシャツの一番上のボタンを外しながら小声で言う。

「どーいうものなのかは知らないが……こうなるだろう事は
 分かってたのか? あんま驚いてるように見えねーけど」
「まさかって、ちょっと思ってた……」

蝶ネクタイも緩めて、一息つく。

「それにしても、お前って富太郎が相手だと、
 なんつーか……普通っぽいんだな」
「? 何が?」
「別に。……ま、そこが富太郎の素質か。歳も近いしな」

一人で肩を落とした後、切り替えたように
真面目な口調で切り出した。

「で、崎の事だけどな」
「あ、うん。はい」

無意識に背筋が伸びる。
大きな声で言えることではないのだろう。
少し顔を近付けて、単刀直入に紋胤は言葉を吐き出した。

「崎は、健忘症だ。聞いた事くらいあるだろ」

健忘――記憶異常の一種で、特定の物事に関する記憶だけ
忘れたり、一定期間を過ぎた過去を思い返したり
出来なくなったものの事だ。

今しがたの富太郎の時のように、ゆっくりと受け止めていく。
それでも驚きは波紋を広げ簡単には消えなかったが。

「崎はある一定期間……あんまはっきりしてねーけど、
 大体の事は二年経てば忘れる。
 それでなくとも日常的じゃない事もふとした拍子に
 忘れる事もある。あの部屋の大量のメモも忘れない為だ」

知らず手が握られていた。
知らなくてもいい事。それをあえて知るという事。
自分が今、表面より深い場所へ踏み込んでいるという事に
由乃は言いようのない胸の締め付けを覚えた。
そして次に紋胤が告げた言葉に、由乃は身を引きそうになった。

「崎の健忘症は外傷によるもので……その原因は俺だ」

せり上がってきたものを飲み下すのに相当な精神力を要した。
紋胤の事だから過去に被害者を百人出してますと言われても
驚く事ではないが、それがこんなにも近くに、しかも隣人として
よろしくしているのは何故なのだろう。
疑問に思ってから、すぐに解答に辿り着く。

「その事を、崎さんは」
「忘れてるだろうな」

思考の機能が低下しそうになるのを由乃は必死に押し止める。

「俺がお前くらいの頃に派手に暴れた事があって……
 まあ、あの頃は派手に暴れてばっかだったが……そん時の
 被害者で生存者なんだよ、崎は。
 頭に瓦礫が突き刺さって、奇跡的に助かったけど
 生きていくのに不自由する痕がついちまった。
 ……よくある話だけどな。こっち側じゃ」

まさか崎の話を聞く事で紋胤の話も聞く事になるとは
思っていなかった。
昔話をする紋胤の声は、媚びるでも悲壮感に溢れているでもない。
歴史の教科書を読んでいるかのように淡々としていた。

「俺がちょっと丸くなった頃に会い行ったら、崎の奴
 何て言ったと思う?
 どうせ忘れるから気にしなくていいよ、だと」

――もし、どうしても謝って償いたい相手がいたとして。
その相手に「忘れるから気にするな」と言われるのは
一体どんな気分なのだろう。
いっそ恨まれた方が楽な時も、あるのだろうか。
恨まれるでも許されるでもなく、忘れられて。
苦しんでいるのは償いたい自分一人になってしまって。

「それでも俺が食い下がったら、
 将来ファッションデザイナーになりたいからモデルになれって
 言ってきやがった」

紋胤の声に微笑ましさが混じったのを感じ取り、
空気が緩んだのを見て由乃は詰まっていた息を吐いた。
見れば紋胤は自分の服の襟を摘みながら、

「それで作るのがこんな服ばっかだ。
 今は寧ろ俺のアイデンティティになりつつあるけどな。
 着ている内に楽しくなっていったというか。俺って何でも
 似合うしな」

誤魔化すように、少し強引に話を終わらせたのは
富太郎が注文したメニューを届けに来たからだった。

「お待たせしましたっ。卵サンドとミルクティーと
 エスプレッソです。ごゆっくりどうぞ!」

何故かやたら嬉しそうに品をテーブルに置きながら
富太郎が訊いてくる。
彼がいるとシリアスだった雰囲気も一気に和やかになってしまった。

「なんか内緒話でもしてたんですか?」
「今度の休みにどっかに行くかっつー話だよ」
「えー、いいなぁ。ぼくも連れてってほしいなー。
 ねえ由乃ちゃん?」
「アンタは今週も来週も再来週もバイトだよ、富太郎!」

耳ざとく聞きつけた東雲が叩くように怒鳴った。
富太郎は大袈裟に「ひぇっ」と驚いて、縮こまって
カウンターへ戻っていく。

「つーわけだ、俺の服装の趣味の理由が分かったか?」

そういう話題ではなかったが、突っ込む気にはなれない。
紋胤の目は嘘みたいに誠実そうで。
ふと、あの写真の紋胤を思い出して
その差を比較してしまう。
二重人格なのではと疑いたくなるほど、
その二つは違っている。差がありすぎる。

ただ呆然とミルクティーから上がる
湯気を見つめてしまった由乃は、
カウンター席の近くで富太郎が派手にすっ転ぶ音で
ようやく我に帰った。

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