第4幕/歪み不安定 03

「お前、他に訊きたい事とかないのか」

富太郎が転んで割った皿の片付けを手伝い終えた後、
紋胤が唐突に言ってきた。
座るように促されて席に戻り考える。
訊きたい事は山ほどあって逆に特定できないが、
それを今まで訊けなかったのはあれもこれも訊ける度胸が
由乃になかった事と、自分達の間に溝のようなものを感じて
いたからだ。
紋胤の所に着てもうすぐ二ヶ月が経とうとしている。
正直、由乃には未だに彼を父親として見れていない。
十六年間会った事もなかった人物をすぐに父親と見れないのは
当然ではあるが。
父親だと思っていないわけではない。
それでも抵抗感というのは付いて回るのだ。今も。

ぐるぐると考えてしまってから、
次の紋胤の言葉で彼が言いたいのはそこではないのだと知った。

「辰三の野郎に何かを吹き込まれたのか?」

辰三、という名前に心臓がひやりとしたのが
顔に出てしまったのか彼は眉をひそめた。
今度は由乃から視線を逸らし、ガラス窓の向こうの
町の風景を見ている。

「さっき目が覚めて俺を見た時、お前、俺を見て
 怖がっただろ、一瞬」
「え」

確かにあの時は写真を思い出してしまい、
一瞬恐怖がよぎったが、気付かれていないと思っていた。
今だって落ち着かないが、
目の前にいる紋胤が優しいので別の意味で落ち着かなくなっている。

「俺が昔にやった所業の数々って所か」

咄嗟に頷く。
本当の事をありのままには言えなかった。
崎の事といい、紋胤は昔に相当な酷い事をやらかしたようだが、
それは過去の事だと紋胤は言っている。
写真は昨日のもので、確かに紋胤は仕事に行っていた。
あの写真が様々な技術を凝らした偽造だと言い切れないが、
血の海の中で嗤う紋胤はそれがとても――似合っていた。
それなのに今の彼はそんな気配など微塵も感じさせない。
由乃は足元の不安定さが益々強まっていく気がした。

「奴は何を言った」

忌々しさが煮詰まった声。
言葉が短いのは、長く話して余計な感情を出さない為か。
余計な部分が予定しないよう慎重に言葉を選び、

「昔のお父さんとお母さんの事を知ってるって言われた」
「…………」

由乃の台詞に紋胤は目を細める。
遠い昔を見ようとしているかのようだったが、思い出しているのは
辰三ではなく由乃の母――蜜の事なのだろう。
一瞬の切なげな表情の後、紋胤は頬杖をついた。口元が見えない。

「お父さんに因縁があるって言ってた」
「因縁ね」

なくせるものならなくしたい、とやはり忌々しげに呟く。

冷たい視線を由乃へ向け、

「由乃。今後一切、辰三には関わるな。
 向こうから接触される事があったら全力で逃げろ。
 この件が片付くまで絶対に一人になるな。
 奴は絶対にお前を狙っている」
「あたしを? ……どうして?」
「お前を巻き込むのが一番面白そうだからだ」

自分が桜橋紋胤の娘なのだから、なのだろうか。
そうと断言する紋胤は、辰三の本性を知っているのだ。

急に紋胤が立ち上がり、千円札をテーブルに置く。

「じゃ。俺は仕事に行く。お前はゆっくり休め」

それだけ言って、足早に去ろうとする。
それが誤魔化すかのように見えたが、何を誤魔化しているのかは
分からない。それでも背を向けられた瞬間、
はぐらかされたような思いがした。

原因不明の焦燥。去り行く背中を呼び止めようとして、
脳を通さずに声が出た。

「――そ、そういえば崎さんが、お母さんからお父さんに
 写真が送られてくるって言ってたけど、本当?」

スイッチを切ったかのように紋胤の足が止まった。
そのまま首だけが、ぐりんっと振り返る。

崎と母の話があったせいか、咄嗟に思い出した事を
言ってみただけなのだが意外な効果があったらしい。
紋胤の鋭い目が驚きに見開かれている。

「な、なんでそれを」
「いや、だから崎さんが」
「見たのか?」
「今の今まで忘れてたから……、え、あれ?」

やりとりしつつ、由乃はおかしい部分に気付いた。
紋胤は蜜と由乃に十六年も会っていない。
それは紋胤が自分の住所を告げずにいたからだと
思っていたが、相手の住所が分からなければ荷物は届かない。
唐突に気付いた事が衝撃となって由乃を大きく揺さぶる。

考えるより先に疑問が出た。

「お母さんは……ここの住所を知ってたの?」

知ってたけど会いに行かなかった? 十六年も?

その疑問に答えられる紋胤は慌てるように目を逸らし、
歯切れの悪い言葉を搾り出した。

「それは……蜜と俺は……、俺は、蜜を……」

言いにくいというよりは表現する言葉が見付からないといった
戸惑いっぷりに、由乃は聞いてはいけない事を訊いてしまった
気分になる。
紋胤は由乃が今まで見た中で一番動揺している。
今まで二人の間で蜜の話題は暗黙の了解のようにタブーだったのも
動揺を更に強くしているのかもしれない。

「それについては、なんつーか、
 上手く言えねーからまた今度だ!」

そんな情けない事を叫んで紋胤は今度こそ
振り返らずに早足でカフェの入り口へ歩いていく。

「…………」

唖然と由乃が席に取り残される。
すると呆れ顔の東雲が傍まで来た。

「何の話だか知らないけど、紋胤の奴結局誤魔化したまんま
 逃げやがったね……。肝心なところで踏ん張れない奴だ。
 三十過ぎた子持ち男が情けないったら」

ねえ? と由乃に同意を求めるが反応に困ってしまって
曖昧に笑う事もできない。
ドアの方へ目を向けると遠くてもバーテンダー服は容易に
見分けが付いた。ふと言ってみた事が思わぬ結果を招いた事が
由乃の心情を乱し続けている。
紋胤のコップを引き下げつつ、
東雲は珍しく柔らかい口調で語りかけてきた。

「でもさ由乃。誤解するんじゃないよ。
 アイツが情けないのは、あんたの為なんだからね」

言っている事の真意が分からなくて首を傾げる。
「せい」ではなく「為」というのも分からない。

「……どういう意味ですか?」
「それは自分で考えな。
 でも一つだけ言ってやるとね、あんたが紋胤とどう接していいか
 分からないように、アイツも由乃とどう接したらいいか
 分からないんだよ」

あ、と声が出そうになる。
そんな事は考えても見なかったからだ。
わざとらしいハイテンションも、しどろもどろも。
それらは彼の性格に全てが起因するものではなくて。

「まずは相手とどういう仲になりたのかを決める事だよ、由乃」

くるりと向きを変えて東雲はカウンターに戻っていく。
さらりと相手の心情を落ち着かせ、慰めるのは彼女の人柄が
なせる業だ。ある意味才能でもあるかもしれない。
東雲の言葉をきっかけに何かの焦点が合いつつある。

――どういう仲になりたいか。

ホッとする味のミルクティーをすすりながら由乃はしばし黙考する。
この時、由乃は久方ぶりに心落ち着かせて誰かに関して
深く考えようとしていた。
今なら心情の変化を受け入れられる気がする――と
無自覚にそう感じながら。

しかし周りはそんな事にお構いなく更に由乃を揺さぶりにかかるのだ。

「いらっしゃいませー!」

富太郎の元気な声が聞こえて、客が来たのだと考える。
何気なく視線をそちらの方へ向け――由乃は凍りついた。

長い髪に包まれるような真っ白で異様に痩せた小さな体。
太目は眉毛も昨日見たものと合致している。
ただ活力溢れる友好的な光を宿した目だけが違っていたが。

「あれ、君一人? お母さんとお父さんは?」

まだ小学生くらいだと思われるその子に
富太郎は呑気に話しかける。
その子はにっこりと笑って、由乃が逃がさない為の一言を放つ。

「ううん。わたしね、由乃お姉ちゃんに会いに来たの!」

演技がかった言い方だったが、
富太郎は少しも疑っていない笑顔を浮かべる。

「なら丁度いいね! 由乃ちゃんなら今ここにいるよ。
もしかして由乃ちゃんの妹さん?」
「いえ。従姉妹なんです。このマンションにお姉ちゃんが
引越したって聞いて」

あの人間を見るだけで異様なおびえを見せていた
雰囲気は何処へ行ったのか。
そこには同じ姿をした違う人物が立っていた。

逃げなければ、と思った時には既に遅く
富太郎に手を引かれた子供は目の前にいる。

「会いに来たよ――由乃お姉ちゃん」

凶悪に無邪気な笑顔で田菜赤音らしき人は言う。
望まぬ再会は、予想外に早く訪れた。

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