第4幕/歪み不安定 04

「殺しに来たわけではありませんから身構えないで下さい」

周りに人がいなくなった途端、無邪気な子供の仮面は
あっさりと脱がされた。
子供らしからぬ交渉用の油断のない笑みを浮かべつつ、
アイスミルクをストローで吸う姿は釣り合いが取れていない。
ちなみにこのアイスミルクは由乃のおごりという事にされていた。

殺しに来たわけでなくとも会いに来られただけで
由乃としては大変迷惑な話であるのだが。

「まずは自己紹介をしておきましょうか。
 自分は田菜赤音の別人格の黒音といいます」
「はあ、別人格」

先ほどの紋胤との会話もあってか話題が常識から外れていても
動じない耐性がついてきているらしい。
双子という事も考えていたが、彼女もしくは彼が
「二重人格だ」というなら素直に受け入れた方が楽だ。

「でも周りの人にとっては変わらないように見えるから
 そう言っているだけです。本当は二重人格じゃないんですよ」

こちらの心情がまるで見えているかのように
知りたい事を的確に言われてしまった。
知られてまずい事でもないのに内心で思っていた事を
見抜かれるのは落ち着かない。
赤音改め黒音は
訊いてもいないのに自身についてハキハキと説明を始めた。

「多重人格とは人格が枝分かれした状態の事で、
 治療法もその枝分かれしたのを束ねて元に戻すと
 いうものですが――全く別の物を束ねて
 元に戻すというのは無理でしょう?」

すらすらと淀みなく言葉が出てくる口調は、
説明し慣れているというより前々から用意してあった台本を
感情を込めて読み上げているかのようだった。
やたら嬉しそうな顔をしながら黒音は続ける。

「確かに自分の人格を入れているのは赤音の分離した感情――
 ここについてはこの子のプライバシーなので割愛しますが、
 それに付け込んでいるのでやはり傍から見れば多重人格と
 変わりませんね。
 昔はよくあったんですよ。膨張しすぎた感情が分離して
 そこに人じゃないものが移り住むのって」

最後の言葉にハッとなって背筋が強張った。
由乃が理解した事を悟った黒音は笑みを深くする。

「そう。早い話が、自分は人間ではありません。
 この子に憑依しているだけの卑しい霊ですよ」

由乃が言葉を返せずにいると、
黒音は潰したストローの袋に、ストローの先に残った牛乳を
かけて、それが水分でふやけ伸びていくのを見て遊んでいた。

「……その話をあたしにするのは、どうして?」

黒音は馬券でも当たったような顔で即答する。

「よく分からない相手では落ち着いて話も出来ないでしょう。
 あと自分は瑣末な低級霊だけに自己顕示欲が強いので、
 自分の事を知ってもいい人にはなるべく伝えたいのです」

黒音と名づけられた自分を、と憑依霊は
わざとらしく胸に手を当てて言う。

「あたしが今すぐあたしの狗で貴方を食べようとしても?」
「それが貴方に出来るなら」

黒音は一度顔を俯かせる。
再度顔を上げた時には無邪気な子供の顔があった。

「由乃お姉ちゃん。デザート奢ってくれる?」

自分の中に躊躇いが生じるのを感じた。
人の体に憑依している霊といっても、目の前のそれは
人の形を取っている。
前の木春のように明らかな敵意を以て襲われるなら
迎撃という応戦する理由が作れるが、
少なくとも襲ってくる気配のない少女の外見をした黒音に
ジューダスをけしかけるのは躊躇われた。
こういう時お父さんならどうするのだろうか、という考えが
頭をよぎった瞬間、黒音が堪えきれなくなった風に噴出す。

「あはっ。敵なのに、優しいんですね」

甘いんですね、と言われたような気がした。

「さて。自己主張もこのくらいにして本題へ移りましょうか」

また子供が浮かべるものではない表情を露わにして
逃がさないというよりに見つめられる。
今さっき「絶対に関わるな」と言われたばかりであるし、
由乃自身も耳を貸すつもりはなかったが
黒音がいう「本題」は予想外過ぎてつい顔を向けた。

「辰三さんに協力しませんか?」

言われた事を性格に呑み込むのに時間がかかった。
脳が理解することを面倒くさがったからかもしれない。

「……しますって言うと思う?」
「思ってないから、ちゃんと説得の内容は考えてきて
あるんですよ。勧誘の理由は二つです」

その一、と黒音は人差し指を立てる。

「辰三さんは由乃さんの狗に興味を持っています。
 彼ならそれほど時間をかけずにソレの正体を
 突き詰めると思いますよ」

黒音は足で自身の影を踏む仕草をする。

「実は怖いんです。貴方のそれは自分を一瞬で消す事ができる
 ものですから。でも普通は霊一つを消し飛ばすのは
 朝飯前な強いもの、ましては意思を持っている生命体を
 物ではなく自身の一部に宿らせているのはあまりにも
 イレギュラーなんですよ」

この異常な世界においてさえイレギュラーである。
改めて突き付けられて動揺する由乃の足元で
あの黒い狗がおかしそうに笑った気がした。
ジューダスがなんであるかは分からないし、
知るのは諦めていたが――

由乃の感情が収まらない内に黒音は「その二」と
中指を立たせる。

「Q・M・Co.の、桜橋紋胤の傍にいたら
 貴方はきっと後悔しますよ」

見えない冷たい手が由乃を揺さぶりにかかる。
先ほどまで真剣に向き合おうとしていたものに急に棘が生えて
触れさせるのを戸惑わせてきた。
それとも、棘が生えているのに気付かないで
それにさわろうとしていたのだろうか。
天秤がぐらついたのを悟られないようにするのに
相当な気力が必要だった。

「それ、は……昨日の写真の事?」
「それもありますけれどね――桜橋紋胤に貴方は救えませんよ。
 彼はもう恐れ知らずの人でなしではありませんから」

自分に対して「救う」などという大きな言葉が
使われている理由がよく分からない。
初めてあった日、紋胤は生き方を教えると言ったが
それは救うのとは違うだろう。

「救うって……」
「救うと言っても、彼は貴方を代用しているだけです。
 十六年前、貴方のお母さまの染井蜜を助けられなかったから
 彼は代わりに貴方を救って帳尻合わせをしたいのですよ」

わざと悪意ある言葉を使っていると分かってはいても
受ける印象はその言葉の方へ引きずられていってしまう。
今が昼前の暖かな春の日だというのが嘘のように、
手先が冷えている。
由乃の母は勿論今日も元気に存命中だが、
「助けられなかった」というのには心当たりがある。
寧ろそのせいで紋胤は蜜と離れていたのだから。

「だから辰三さんは貴方を本当の意味で救ってやりたいと
 言っていました」
「…………」
「内容は秘密です。知らないんですよ、自分も」

紋胤に自分は救えない。
それは由乃を貫いたまま留まっているが、
だからといって、あの見るだけで寒気がするような男が
差し伸べる手を掴みたいとは思えない。

「そ、そんな救うとかなんとか……。
 あたしはそんな事されるような人間じゃない」

その返事を聞いたその瞬間、
黒音がはっきりと軽蔑の色を浮かべたのが分かった。

「……そうやって放棄して混乱を避けようとしても、
 現実の問題は容赦も何もないんですよ」

突然黒音は友好的な雰囲気を消して
冷ややかな口調を浴びせかけた。
一転してニッと笑いながら、

「貴方は今とてもモテモテ状態なんですよ。
 周りの人々はあらゆる手段や嘘を使って
 貴方を自らの方へ誘導しようとしますよ」

冷たいものだったのが息を吹き返すように穏やかになっていく。

気付けば顔にはあのわざとらしい子供の無垢な笑み。

「じゃあね、お姉ちゃん。お返事待ってるから。
 また遊ぼうねっ」

席を立ち、やたら楽しげにスキップをしながら
近くまで寄ってきて腰に抱きつかれた。
抱きつきながら足で由乃の影を踏み潰すようにしていたのを
彼女は見逃してはいない。
黒音は自らを低級でジューダスには一瞬で食われるような存在だと
言っていたので、これは手出しが出来ない上のものへの
ささやかな侮辱のつもりなのだろうか。

「よく、考えて下さいね」

少女に巣食う霊は最後にそう一言を落とした。

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