第4幕/歪み不安定 06

黒音が去った後すぐに会社の方へ連絡を入れると
すぐに紋胤が帰って来て防犯ブザーのような
白くて丸い機械を握らされた。
真ん中のボタンを押せば会社に連絡を
入れられるように出来ているらしい。

怖かったか。

紋胤はポンと頭に手を置いてそう聞いた。
困った事になったとは思ったけれど怖いとは思わなかったので、
素直に「怖くはなかった」と答えると複雑そうな顔をされた。
どうしてそんな顔をするのだろうと思っていると
GPSを差し出しながら念を押すように言う。

何かあったらすぐ呼べ。絶対だ。

ことん、と頷くと頭に置かれた手が髪をかき交ぜる。
紋胤の口が何か言いたげに動いたが
結局そこから声が出る事はなかった。



翌日。
由乃はGPSによって常に見張られているという状態に
何の緊張感も持たずに生活していた。
特にやましい事もないので、寧ろ何かあったらすぐに会社に
伝えられるという事に安心感がある。
甘い茶色をしたマンションに帰ってきて、『猫のひげ』の
ガラス越しに目が合った東雲に会釈し、エントランスへ向かう。
エレベーターが丁度最上階である七階に止まったのを見て、
階段を上った方が早いか、と判断して踵を返した。

階段を上り始めてすぐ、由乃はエレベーターを恨んだ。
上から会いたくなかった人物が降りてきたからである。

カジュアルな格好をした璃樹がトントンと等速に
由乃の方へ降りてくる。
数週間前の出来事が頭を過ぎりここから離れようと考えたが
時すでに遅く、璃樹と目が合ってしまった。
何も感じていないふりをして通り過ぎよう――そう決めて
会釈だけで彼の隣を通り過ぎようとした。
向こうも気まずいだろうから
よりにもよって話しかけてくるなんて事はしないだろう。

「よお。相変わらず愛想がないな」

よりにもよって話しかけてきた。

「それともドキドキしちゃって何も言えないとか?」
「……違います」

仕方なく振り返ると、何がおかしいのかニヤニヤ顔の璃樹。
一体何のつもりだろうか。出そうになる溜息をぐっと堪えて
相手の出方を待った。

「お前のアドレス教えてくれた子、
 お前と同じ学校の川堀って名前なんだけど知ってる?」
「かわほり? ……すみません、誰ですか?」
「同じ組だってよ。入学式の日にクラス全員の
 アドレス聞いて回ったんだと」
「…………ああ、そういえば……」

確かに入学式の日にクラス全員に話しかけ携帯のアドレス交換を
している女子生徒がいた。
学年全員のアドレスコンプ目指してるの、と言っていたが
由乃としては友達になる気もない人とアドレスを交換しようとする
意味が理解出来ない。
実際、その川堀という人とそれ以来話した記憶もない。
どんな子なのか思い出せないが、
少なくとも璃樹のターゲットになってしまうような人なのだろう。

「その川堀、お前のアドレス教えてくれってオレが言ったら
 えらく機嫌損ねて悪口言い出したぜ。
 暗くて地味なくせに孤高気取ってるとか。
 あとは篝火に媚売ってる、とかな」
「……はあ」

由乃が気のない返事をすると
璃樹はにやにや顔を止めて怪訝そうな顔をする。

「『はあ』、て。お前、それだけかよ」
「だってその川堀さんと仲が良いわけでもないですし。
 だから悪口言われたり嫌われても別に……」

慣れていますし。
小さく付け足した言葉に自分で驚いた。

そうだ。地味とか暗いとか陰口言われるのは
もうずっとされてきていた。
そう言われる事が当たり前になって慣れている事にも
気付いていなかった。
慣れてしまったのはいつだっただろう――思い出せない。
陰口を言われるようになったのはいつからだろう。
思い出そうとしてもそんな昔の出来事は掠れていてよく見えない。

――あたしはどうして……、

頭の中で何かが閃きそうになって由乃は慌てて
思考を振り切った。
これ以上、何かに気付いてはいけないような気がする。

急に黙ってしまった由乃を怪訝な目で見ていた璃樹は
思い出したように腕時計を見た。

「やべ。新幹線に遅れる」
「……新幹線?」
「野暮用で遠出だよ」

くるりと背中を向けて璃樹は階段を再び降り始めた。
高そうなブレスレットの付いた腕が一度振られ
すぐにそれは見えなくなる。
頭上で三匹のカラスが旋回しながら飛んでいた。

   × × ×

投げたカッターが空中で溶けるように分裂、変形し
数本のメスをなって指の間で挟んでキャッチする。
腕を振って全てを前方に投げつけた。
あるメスはダーツの的の中心に、あるメスは壁に刺さり、
的の端、中心の横にそれぞれ突き刺さる。

薄暗い部屋。木春は「うーん」と首を捻り、
刺さったメスを融解させ、手元に戻す。
彼の手に戻ったそれはサバイバルナイフになっていた。

「せんせー。やっぱり上手くいかないや」

部屋の隅の椅子に座って考え事にふけっていた辰三に
甘ったれた声をかけた。

「んー? 何度も投げてればその内分かるっしょ。頑張れー」

考え事に没頭していたらしい辰三は実に適当に返事をした。

「でもこんなんじゃ桜橋を殺せないんじゃないの?」
「別に必ず殺せってわけじゃないよ」
「何よりも染井ちゃんを傷つけられなさそう。大問題だよ」
「……染井ちゃん?」

やや妙な呼び方に反応すると木春は眼鏡の奥の目を
嬉しそうに輝かせた。

「うん。僕としてはフレンドリーに『由乃ちゃん』と呼びたいけど、
 でも僕らはまだ知り合ってまもないからいきなり名前呼びも
 なんだしって事で、染井ちゃん。今決めた」
「……ふーん」

物騒な会話をしながら、木春はもう一度手の中のナイフをbr> 変形させて数本のメスを投げる。
しばらくして、辰三が急に立ち上がり木春の方を向いた。
その手には手の平に乗るくらいの瓶が収まっている。
中には黒い何かが入っていたが
薄暗いこの部屋ではよく見えない。

「よしっ。いつまでも止まってらんないし、
 そろそろ動こうか」
「作戦まとまったの?」
「かなり行き当たりばったり」
「テキトーだなぁ」
「男は多少強引な方がいいんだぜー」

歩き出した辰三の後ろを木春が慌てて追いかける。
ポケットにカッターをしまいながら、

「先生先生っ。強引な方がいいって、それって本当?」
「本当よー。欲張らないと欲しいものは手に入らないでしょ」

辰三の心からなのか適当に言っているのか分からない言葉に
木春は皿に目を輝かせ、歩調にリズムが入る。

「じゃあ先生も今から欲張りに行くんだ?」
「そうそう。あの子の『狗』をね――」

二人は暗い廊下を歩き、やがて先の方に
淡く光が見えてくる。
光が漏れている鉄扉の前には赤音――否、黒音が
立っていた。
辰三が来たのを見て、黒音はこれから起こる事に
胸を高鳴らせ、楽しさと嬉しさを詰め込んだ顔で言う。

「染井由乃にはフラれましたが、しっかりと揺さぶりを
 かけてきました。……準備は出来ています。
 いつでもどうぞ」

黒音の言葉に辰三は口端を裂くように笑った
重い扉を、不快な音と共に開け放ち、

強い風が三人の体を打った。

そこは途中で建設が放棄された高層ビルの外側だった。
全三十階になるはずだったビルは二十階からは骨組みの鉄筋のみで
十九階の半分には天井がなく、見上げれば暮れていく空が見えた。

その中途半端に屋上となってしまった十九階の吹きさらしの
中で夕陽を浴びながら辰三は手に持っていた瓶の蓋を開けた。
逆さまにして、中から落ちてきたのは――昆虫の残骸。
節足の足や、羽根、頭がぱらぱらとコンクリートの上に落ちる。
そして残骸の中にたった一つ、生きているものがいた。

どす黒く、通常のものと比べて明らかに一回り大きいムカデは
高所から落とされたにも関わらずすぐに起き上がり、
辺りを散策し始めた。
散らばる残骸に目をつけそちらへ目を向けた時、
辰三はムカデを容赦なく踏み殺した。
腹が二つに千切れてもなお動くムカデからは怨嗟の念が
見えるようだ。

やがて、死に絶えたムカデから――滲み出るように
黒い霧のようなものが飛び出した。
渦巻くそれに向かって辰三は手を伸ばして指先で空中に印を切る。
すると黒い霧はムカデの形を取り、辰三の前に大人しくひれ伏した。

「おーおー、蠱毒なんて初めてやったけど
 上出来なんじゃない?」

やっぱ俺って天才じゃーん、と上機嫌にぼやきながら
満足げに目の前の黒いムカデを見る。

「……何でも有りですね、貴方は」

背後で黒音が関心とも呆れともつかない声を上げる。

「まあね。これも召喚に近いものではあるし」

辰三が笑う。
無邪気のその逆、邪気しかないある意味で純粋な笑顔だった。

「あとはあの『狗』がこれに引っ掛かるかどうかだけど、
 まあそこは賭けって事で――行け」

命ずるとムカデは素直にその場から飛び立った。
夕暮れと夜のグラデーションを彩る空の中に
一転の染みのように浮かび上がる黒は
次第に小さくなって消えていく。

「さぁて、迎えに行きますか」
「迎えにって?」
「向こうも待ってるだろうしな。
 十六年も待ってただろうから、そろそろ
 迎えに行ってあげなきゃ悪いだろ?」

している事とは対照的にのんびりと背伸びをし、
辰三がビルの中へ消えていく。
黒音がそれに続いて、木春はそのまま夕暮れの町並みを見ていた。
この俯瞰風景の何処かにあの子がいる。
もうすぐ会える。

その時の場面を想像し、木春は堪らないとでもいうように
体を震わせた。

「染井ちゃん、仲良くしようね。
そしたら由乃ちゃんって呼んでも大丈夫だもんね」

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