第4幕/歪み不安定 07

深夜。

低い唸り声が聞こえた気がして目を開けた。
お気に入りの抱き枕から体を放し
自らの影を見下ろすと人の形を崩して
大きな犬の姿をしていた。
ぐるぐると足元を渦巻き、興奮を表すように
真っ赤な口を大きく開ける。

この『狗』が自発的に動く時は決まってソレにとっての
“獲物”が近くにある。
食欲に忠実な狗は早く食べたいとばかりに
落ち着きなく動き回った。
由乃はサイドテーブルに置いてあったGPSを手に取り、
ふと背後に気配を感じて振り返る。
背後は窓があるだけ。深夜なので外は真っ暗だ。
しかし由乃の第六感的なものが激しく警鐘を鳴らす。

窓の向こう――この街は外れとはいえ、都会である。
それなのに灯りも何も見えないのはおかしくはないだろうか。

何かに気付きかけたその時、闇が動いた。
煙が揺らぐように闇が揺らいだのだ。

「っ!」

反射的にベッドの上から飛び降りる。
一瞬前まで由乃のいた場所には黒い煙のようなものが
旋回していた。胴体が長く足が無数についたそれはムカデに見える。
待ってましたと言わんばかりにジューダスが吠えた――
声がないのでそう感じられただけだったが。

ここで応戦するべきかどうか迷う。経験の少ない由乃は
目の前の黒ムカデがどれ程強いものなのか判断できないが、
少なくとも弱くないことだけは分かる。
これが、凄くよくないものであるのは肌が感じ取っている。

迷った末、一発でジューダスが仕留めなかったら
即座に逃げることにした。
ドアまで後退しすぐに逃げられる体勢を取る。
行け、と心の中で狗に命じると
自分の中の様々なものが削げ落ちて思考が単純になる。
考える事は唯一つ。目の前のムカデを喰らう事。
ムカデは不気味なほど静かでその場を動かない。
赤い二つの点、恐らく目に相当するそれが
観察するようにこちらを見ていた。

影の狗が平面から離脱し、立体として現れる。
黒い霧と黒い狗の対峙。
余計なもののない思考のせいか感覚も研ぎ澄まされて
いくようで、ムカデの僅かな動きも見逃さない。

先に動いたのは狗。
目で追えない程の瞬発力で左に飛び、壁を駆け、
ムカデの背後からその胴体に喰らいつこうとし――

「由乃!」

ドアが勢いよく開く音と共に紋胤が入ってきた。
寝ていたのか恰好は黒いワイシャツに黒い長ズボン。
由乃は乱入者に興味も示さずただ前を見ている。
視線の先、ジューダスの牙がムカデに喰い込んでいた。

「平気。もう終わる」
「待て、それを喰うな!」
「何――……っ!?」

突然、杭を打たれたような激痛が胸に襲い掛かり胸を押さえた。
そこに本当に杭が刺さっているようで掻き毟りたくなる。
顎を持ち上げ前を見ると、ムカデを喰らったジューダスも
由乃と同じように痛みにのたうち回っていた。
ムカデの黒い霧の残滓を振り払いながらジューダスが暴れ
形を保てなくなって、ただの影に戻る。

「う、あ……!!」

ジューダスが戻った事で感覚が戻り、痛みだけでなく
痛みに伴う恐怖が由乃を苦しめる。
額や背中からどっと嫌な汗が溢れ、
臓腑を握られているような気持ち悪さまで現れた。
耳鳴りがして、足元がふらつく。
倒れそうになった瞬間、ふわりとした浮遊感があり
平衡感覚もおかしくなったのかと思ったが
すぐにそうではないと気付いた。すぐ近くに紋胤の顔がある。
抱き上げる大きな手の感触はあったが、
痛みと気持ち悪さが激し過ぎて温もりが届かない。
生理的な涙が溢れ、近いはずの紋胤の顔が見えない。

「馬鹿が! あれは蠱毒だ!」

言われても由乃には「蠱毒」という言葉は理解出来なかったし、
何かを考える余裕もない。
紋胤は由乃が握っていたGPSをもぎ取ると
苛立たしげにボタンを連打する。
通話機能がついていたのか、GPSから声が聞こえた。

『由乃、何かあったの?』
「社長、今そっちに蕗時はいるか?」
『あれ、紋胤? ……蕗時? いるけど』

向こうからの声――名雪は珍しく戸惑った声を上げた。

「由乃が蠱毒を喰らいやがった。
 今行くから解呪の準備をしておけ!」
『ちょ、蠱毒って――』

乱暴に通信を切り、由乃を抱え直して走り出した。
鍵を開けながら引っ掛けるように靴を履き、
近所迷惑も考えずにけたたましくドアを開ける。
苦しげに息を吐く由乃に階段を降りる時間さえ惜しんで
三階から飛び降りた。着地の際に膝を折って
勢いを殺す。
人一人抱えた状態では強引できついものがあったが
構わず走り出した。
耐えるように目を閉じていた由乃が
春の夜の涼しい風に心地よさを感じて薄く目を開けた。

激痛は収まったが臓器を握られたような気持ち悪さは
強くなっている。体の中を蹂躙される苦しさに
思わず紋胤に縋りついた。
普段のクールな姿とは打って変わって弱った姿に、
思わず抱き上げる手に力が篭る。

「なんで呼ばなかった。
 何かあったらすぐ呼べっつっただろうが……!」

吐き出せずにはいられなくて紋胤は怒鳴った。
自分が妙な気配に気付いた時にはすでに遅かった。
もっと早く気付けなかった自分にも苛立つが、
それよりもすぐ呼んでくれなかった事の方が苛立たしく
――それ以上に悔しかった。

返事はなく、由乃は苦しげに息を吐くのみ。
ぐったりと汗をかき続ける体は今にもしぼんで消えそうで。

「……くそっ。死なせねえぞ、絶対。今度こそ――」


「今度こそ、何?」


聞こえた声に自然と足が止まった。
住宅街を抜け、もう少しで大通りが見えるだろうその先。
蛾の群がる街灯の下に誰かが立っていた。

「今度こそ守るー、とか?」

視覚で認識する前に気配でそれを捕らえた。
理性が何かを言う前に本能が背中を駆け抜けた。
昔の記憶がフラッシュバックのように一瞬で脳を駆け巡り、
爆発しそうな感情が細胞一つ一つを汚染していく。
最後に思い出した最愛の顔。
その顔が焼け落ちていく様が――
気付けば鎖鎌を握り締め一直線に駆けていた。

「――――――殺す」

ただそれだけの為に。

影から伸びた鎖の先、鋭い刃が喉を狙う。
しかし直前でその喉は刃の行き先から逸れて
刃先は電柱に突き刺さった。

「必殺の一撃って奴? でも軌道が直線過ぎたな」

圧倒的なまでの殺意をぶつけられたにも関わらず
そいつは軽く笑って、あまつさえ駄目出しまでしてきた。
鎖鎌を抜きながら紋胤は目を悪鬼の如く暗く燃やす。
血が沸騰している。細胞が呪詛を吐いている。

「十六年ぶりだっけ。お前全然老けてなくない?」

場違いな台詞を吐くそいつ――辰三は突然現れた。
十六年ぶりの再会という感動的なはずの状況で
片や殺意を丸出しにし、片やそれを平然と受け流す。

辰三の軽口に紋胤は何も言い返さず、
じっと彼の喉や胸、大腿など急所を睨んでいる。
鎌を手の中で回し逆手に持つ。
殺意の塊のようになっていた紋胤に辰三から冷水を浴びせられる。

「そういきがんなよ。お前、娘の状況分かってんの?」

ハッと紋胤が顔を上げて背後を振り返る。
その先には見知らぬ眼鏡の少年が由乃を片手で
抱き支えていた。
空いたもう片方の手は由乃の首にあてられ、その手に
鋭く光るメスが見えた。
一見温和そうに見える少年は紋胤に微笑み、

「酷い父親だねぇ。娘を放り出すなんて」
「――――、」

自分が今何をしてしまったのか。
それを思い知らされて紋胤は硬直してしまった。
爪が皮膚を破るほど拳を握り、それによって
熱が頂点に達していた頭が冷めていく。
一度細く長く息を吸って吐き、

「……あいつが喰った蠱毒はテメエのだな?」
「初めてにしちゃ上出来だろう」

チッ、と舌打ちを漏らす。
蠱毒は呪いの一種である。紋胤が見た限りでは
その黒いムカデは弱くはないように見えた。
術者を殺せば、何が起こるか分からない。
次会ったら必ず殺すと決めていた相手が目の前にいるのに
紋胤は今この場で安易に辰三を殺すことが出来なくなった。
由乃の苦しげな吐息が、黒く染められそうな思考を
なんとか留まらせる。
紋胤と辰三の間にドス黒い空気が流れる中、
先ほどの眼鏡少年が空気を読まぬ声を上げた。

「先生。せっかくまた染井ちゃんと会えたのに
 こんな状態じゃつまんないよ」
「ちょっと我慢なー、木春。
 それに油断するなよ。呪われていてもその子の
 能力が消えたわけじゃないんだから」

――このガキが羽佐間木春か。
由乃と璃樹と交戦し、それに巻き込まれた富太郎の
元同級生だという少年。
平然と人の喉にメスを突き付けている点で
残念ながらまともな思考は期待できそうにない。

依然苦しみ続ける由乃を見ると今すぐ木春の腕を
切り落としたくなるが、鎌を握りしめるだけに押し留める。
紋胤の激しい内心を知った上で辰三は
更に揺さぶるような言葉をかける。

「流石お前と蜜ちゃんの娘、可愛いじゃん。
 まあ何か余計なモノまで継いだみたいだけどー」
「黙れ死ね」

絶対零度の声を辰三は「おー怖」とおちょくる。
余裕綽々に煙草を取り出し、火をつけて、
澄んだ春の空気に紫煙を混じらせた。

「蠱毒を解け」
「条件次第では」

黙って先を促すと辰三はニコリと笑って、

「あの子の『狗』が欲しいんだよね。
 俺はアレに可能性を感じている」
「可能性?」
「俺の最終目的に辿り着ける可能性」

紋胤は露骨に顔をしかめた。
表面上はへらへらと笑っているこの男は手遅れな
暗い狂気に侵されている……それを知っているからだ。
自分も十分まともといえる人間ではないのは重々承知しているが、
この男を見ていると自分はまだ普通なのではないのかと
思えてくる。

まだ由乃を拘束し続けている少年を見た。
つまらなさそうに唇を尖らせた彼は明らかに
注意力が散漫している。
由乃の猛攻撃と璃樹の能力を捌き切ったというが
経験も技術もこちらが上だ。油断をしなければ勝てる。
会社まで連れていけば解呪出来る――気に食わない奴だが
蕗時なら由乃を救えるかもしれない。

気付かれないように鎌を握り直し、
一気に少年の腕を切り取る瞬間をイメージし――

ふと由乃が静かな事に気付いた。
ついさっきまで蠱毒のせいで苦しげに喘いでいたのに
今は驚くほど静かになっていた。
一瞬最悪の考えが浮かび再び駆けだしそうになったが
それより先に“それ”が起こる方が先だった。
今まで飄々とした顔をしていた辰三も、こちらには
我関せずの態度を取っていた木春も表情を変える。

――周囲の闇がたわみ、大きくうねった。

気付いた時には影の刃が三人に向かって
地面から伸びていた。

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