第4幕/歪み不安定 08

由乃自身から何かが分離しようとしている。
少しずつ皮膚を剥がされていくような痛みと
気持ち悪さにえずいた。体の中で何かが暴れている。
苦しくて顔を覆った手の指の隙間から足元の影が
意思に反して解れ、崩れていくのが分かる。
内と外が引っくり返りそうな気持ち悪さの中、
助けて、と小さく言った。
誰でもいいから助けてほしかった。感覚全てが痛覚に
変わってしまったかのような、他の事が何も感じられない孤独感。
嫌だ、嫌だ。助けて。誰か、誰でも、何でもいいから助けて。

――でもあたしが助かって、何になるって言うんだろう。

自棄的な思いが浮かび、心に穴が開いた瞬間。
剥がれ落ちる音を聞いた。

× × ×

由乃から黒い霧が出てくるのと、
影の刃が襲い掛かってくるのはほぼ同時だった。
紋胤は横へ跳び、辰三は体を捻り、
木春は由乃を突き飛ばして後ろへ飛んだ。
一秒後、三人がそれぞれいた場所に黒い刃先がめり込んだ。

全員が次の攻撃に身構えたが、影はすんなりと身を引き、
立体から平面に戻り、少女の傍まで収束する。
湧き上がった黒い霧は身を寄せ合うように集まり出し、
脈打つような不気味な動きで狂ったように旋回する。

「……返されたっ?」

辰三が驚いた声を上げた。
確実に由乃を捕らえたと思った蠱毒が吐きだされ、
返されたのだ。
返された蠱毒は元の術者に赤い目を向けた。
舌打ちをしながら辰三はポケットから一枚の
何か文字の書かれた札を取り出すと、
それを同じくポケットから取り出した
ライターで火を点け燃やす。
途端、蠱毒は耳に金属同士を擦り合せたような
耳に痛い悲鳴を上げて、姿が薄くなり消えていった。

「チッ。見よう見真似で陰陽道をするもんじゃねえや」

見よう見真似で出来る方が凄いのだが、
辰三は苛立たしそうに吐き捨てた。

そんな辰三の方には見ようともしない紋胤は
目を細くして由乃をじっと見つめていた。
安易に駆け寄る事が出来ない、近寄ると何が起きるか分からない
刺さるような空気が張り詰めている。
それなのに由乃の目は――酷く虚ろだった。
先程までの苦痛は全て無かった事のように
表情のない顔で由乃が立っている。
由乃のものではない雰囲気を感じ取った紋胤は
瞬きさえも慎重に、彼女に起こった変化を見極めようとしていた。
場の緊張を知らぬ涼しい風が公園に通り抜け
由乃の額に浮かんでいた汗を乾かしていく。

「……由乃」

呼びかけに反応したのか、顔を上げた。
死んでいるかのように何の感情も宿っていない目は
ただ空虚に辺りの風景を映していた。
首をゆっくりと回す由乃がやがて辰三を捕らえ――

次の瞬間、由乃は辰三の前にいた。

「な――」

風が遅れて彼女の黒い髪と服の裾を揺らした。
右手を引き、指を広げた手の平で辰三の顔面を掴むと
勢いよくコンクリへ叩きつけた。

「っ、が、ぁ……!?」
「先生!」

公園のモザイクタイルにひびが入る。

手の隙間から悲鳴が漏れても由乃はお構いなしに
辰三の頭を持ち上げ再び叩きつけようとし、
サバイバルナイフが横から飛び出したのを見て
辰三から離れて距離を取った。

「ちょっとちょっと、先生に死なれるのは困るよ」

冗談なのか本気なのか分からない顔で
木春が辰三を庇う位置で立っていた。
辰三は後頭部から血をぼたぼたと流しながらも
なんとか自力で起き上がる。
衝撃に眩んだらしく目元を抑えている。

「き、はる……」
「先生、大丈夫? 僕この子ともう一度会いたくて戦いたくて
 今からそのつもりだから、庇うけど自力で逃げてね」

無邪気に笑いながら言う少年の肩を掴み、
辰三は珍しく焦った顔で叫んだ。

「違う、あれはお前が勝てるものじゃ――」

言い終わる前に木春の姿が消えた。
人間とは思えない速さで駆け寄った由乃の右足が
自分より大きな少年の体を小石のように蹴り飛ばしたのだ。
嘘みたいに飛んで行った木春の体はそのままの勢いで
公衆トイレの壁に激突し、コンクリートの壁を少しへこませた。
ずるり、と地面に落ちた木春は動かない。

「………………」
「木春!?」

何の感動も興奮も浮かべない由乃が
木春の方へ向かおうとし、
その手が鎖に絡め取られた。
不意を突かれた由乃は鎖に引っ張られるままに倒される。
そのまま引きずられそうになるが、鎖を手に絡ませ
引っ張ると鎖の主――紋胤がつんのめった。
少女とは思えぬ力が紋胤の力と拮抗する。

由乃の手に影が絡みついて黒く染まっているのが見えた。

「――!」

鎖を力ではなく意思で動かし、無理矢理に由乃を引っ張る。
だがその前に由乃が地面を蹴って宙高くに舞い、鎖を手放す。
地面から伸びた細い影が何本も絡まり合い、
落下する由乃の下に足場を作った。
当たり前のようにその上に着地する。
紋胤たちを見下ろす虚ろな瞳は睥睨しているように見えた。

見れば由乃の足から首の辺りまでに影が模様を描くように
影が絡みついている。
茎が成長するように徐々に頬へと伸びていく。

「……狗に呑まれたか」

世には呪いや憑き物に憑かれ、それに呑まれてしまう者がいる。
呑まれた者は体の主導権を奪われ、憑き物の意のままに
暴れ回る――「暴走」と呼ばれる現象。

助かる確率は極端に低い――異能力者、最悪の末路。

「……はっ」

娘の窮地に、父は不敵な笑みを浮かべて見せた。
鎖の錘の付いた側を握り、鎌を逆手に持つ。

「丁度いい。好き放題の飼い狗に
 躾をしたいと思っていた所だ」

由乃が足場を蹴る。
敵と判断した紋胤に向かって突撃してくる。
同時に向かって来た影の槍を一振りで捌き
間から顔面へと伸びて来た手を掴んだ。
足払いをかけ、倒れた所を捕まえようとするが
思わぬ反射神経で跳ね起きて転がり、逃げられてしまう。
フラフラと危なっかしくも身軽に起き上がる様は
酔った踊り子のようだった。
結わえていない髪の毛が肩から背中へぱらぱらと滑った。

由乃はまるでオーケストラの指揮者のように片手を上げると
足元から細くなった矢のような幾筋もの影が天へ伸びた。
枝のようだったそれが集まり、やがて大木の幹のような
太さにまでなり少女の姿を隠す。
音は無ないが、狼が吠えたような空気の振動が
辺りをビリビリと弾けている。

影は一本の巨大な槍を形作った。
視界一杯に広がる黒いそれは映画でも見ているような気にさせる。
紋胤はなおも不敵に笑い、鎖をピンと真っ直ぐに張った
黒い巨大な槍に対峙する影法師のような人間。

影に覆い隠されたその奥で、由乃の白い手が
ついっと下へ降られる。
それを合図に槍が紋胤の方へ――

ずん、と街全体へ響き渡るような衝撃。

敷き詰められていたタイルが剥がれ飛び、
暴力的な風が周囲の葉を踊り狂わせる。
一瞬だけの嵐が過ぎ去ったような、その震源地には
誰の姿もなかった。

虚ろだった由乃の目に初めて感情らしきものが浮かび、
ことん、と首を横に傾げる。
背後から、

「由乃を無茶苦茶に扱ってくれるじゃねえか」

鎖鎌――ではなく手から伸びた棒に三日月形の刃を備えた
――大鎌を構えた紋胤がいた。

まさに死神の如く背後の立って冷たく言い放つ。

「“お座り”だ。狗っころ」

避けようとした由乃の足がふらつき、
腰から地面にペタンと座り込んだ。
腰が抜けたように立ち上がれない事に戸惑っているらしく
顔にわずかに焦りを浮かばせる。
周りに広がる影は急に糸が切れたように力なく
揺らめいていた。

「ぁ……う……」

言葉にならない呻きを漏らし、地面に付いた手から力が抜け
仰向けに転がる。
影が小さな犬の姿を形作った。
紋胤に向かって唸るように身構えながらも
何も出来なくなったのか震えているようにも見えた。
そんな狗を嘲るように、

「キャパの限界だ。そもそもテメェと由乃じゃ
 呪力に対する耐性もキャパも桁違いだろうが。
 宿主の体が崩壊する前に大人しく戻れ、狗」

一歩ずつゆっくりとした足取りで歩み寄る。
鎌を手の中で回し、刃が少女へ向く。
辰三の時とは違う、冷たい憎悪の目が見下した。

闇の中、黒い一閃。

鎌の刃は狗と由乃とを繋いでいた細い影を断った。
分かれた影はすぐに元に戻るが狗は悶え苦しむように暴れ、
やがて形を崩して地面の上を影のみが宛てもなくさ迷う。
同時に由乃も糸が切れたように地面に体を預けてしまった。
大鎌を鎖鎌へ、そして自身の影の中に落として戻し、
紋胤は由乃を担ぎ上げた。
寝息は細く、動かない体は全体重をかけてもたれかかってくる。

ざっと辺りを見回すと由乃にやられた辰三も気絶した木春も
消えていなくなっている。
逃がしてしまった事に舌打ちをしつつ歩き出そうとした時、
公園の向こうから物凄い勢いの車が走って来た。
勢いよく横滑りして紋胤の目の前でピタリと止まった車から
ワインレッドのスーツの女性が現れた。

「よう、社長」

娘を背負ったまま紋胤が軽く挨拶すると
名雪は呆れ顔を浮かべた。

「蕗時がこの場所で『暴走』を観測したわ」
「由乃が呑まれた。由乃自身がそう長くは持たねーし、
 切断してみたが駄目だった。大人しく逆戻りしたよ」
「蠱毒は?」
「ジューダスが返した。術者は辰三」
「……そう」

話しながら当たり前のように紋胤は車の後部座席を開けて
由乃を横たわらせる。
顔にかかった髪を払いのけてやっている様子を見ながら
名雪は顔を引き締めて、

「私の立場上、暴走した人間をそのまま帰す事は
 出来ないのだけれど」
「いちいち言われなくても分かってる」
「あと負傷した社員を見過ごす事もね。
 ……その脇、早く病院行って診せてきなさい」

名雪が指差した場所、紋胤の脇からは
血が流れていた。
黒い服を着ているので目立たないが
今もシミは広がり続けている。

「全部はさばけなかったんだよ」

聞こえないよう小さくぼやく。
先程の黒い槍の雨のひとつは脇を貫通していた。
あまりの痛さに感覚が麻痺しているが、
その痺れもそろそろ切れかかっている。

何も答えを返さない紋胤の後ろ姿に
名雪の抑えた声が投げられる。

「暴走した異能力者、染井由乃は
 Q・M・Co.が拘束する」

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