第5幕/歪み少女 01

まず初めに考えたのは、動けない、という事。
両の手首に冷たく硬い感触。背中に回された腕は
動かそうとしても耳障りな音を立てるだけで
自由にはならない。
それ以外は特に問題なく動かせたが、
腕が動かない以上に体中の疲労感が酷い。
酩酊感、とでもいうのだろうか。酔った事がないから
分からないが、体を動かす事が面倒で
頭が糸で思いっきり縛られているかのように痛い。
なのに何故か体が置かれているのはベッドがソファらしい。
寝心地良い感触がこのまま起きなくてもいいや、と
手招きしている。
確かに気持ちが悪いが、
あの蠱毒ほどではないし……―――蠱毒?

「…………!」

ハッと、意識を曇らせていたものが散った。
ダルさと頭痛までは消えてくれなかったが、
眠りと覚醒の間を彷徨っていた由乃の五感が
一気に戻って来る。
最初に見えたのはこちらに向かって微笑みかける
真っ赤な口紅。

「おはよう。もう目が覚めるなんて結構タフね」

原色そのままの赤い口に、同じ色のマニキュアの爪を当てる。
その仕草には見覚えがあった。

「事澤……社長」

Q・M・Co.の社長。魔窟のような組織の頭を務める女性。
彼女は向かいのソファに座り、優雅に足を組む姿勢で
由乃を見ていた。
――この部屋は……?
由乃はただソファがあるだけの部屋に転がされていた。
それほど広くないとは思うがソファ以外に何もないので
実際以上に広く、また生活感とはかけ離れたものを感じさせる。

「ごめんなさいね。変な部屋に連れ込んで」
「いえ、別に……」

起き上がろうとして、動けない事を思い出す。
背中に回された腕は見えないが、感触で推測するに
もしかしてこれは手錠でも掛けられているのだろうか。
疑問がそのまま顔に出ていたのか、名雪が答えた。

「それもごめんなさいね。別に変な趣味とかじゃなくて、
 一応形式的にだけでも貴方を拘束しなくちゃいけないから」
「拘束……?」
「そ。気分が悪くなった後の事は覚えてる?」
「……あまり、覚えてないです」

外に出た事、夜風が涼しかった事、
紋胤が何かを叫んでいるのは覚えているが、
そこから先は覚えていない。
何か、気分の悪い夢を見ていたような気もするが
その内容もよく思い出せなかった。

由乃の返事に名雪は足を組み直し、
思案顔で何処を見るともない目をした。

正直、由乃にしてみれば拘束されるような事をした覚えはないので
早くこの拘束から解放されたい所だが
下手に何かを言い出す事も出来ない雰囲気でもあった。

「そうね、何から言えばいいかしら。
 とりあえず、麻痺したフリなのか
 本当に麻痺しているのかは知らないけど、
 自分がかなり危うい部分まで来ている事は自覚してほしいわ」

口を開いたと思ったら、名雪はそんな事を言い出した。

「まあ、こうなるまで十何年も放置した
 私にも責任はあるんでしょうけどね」
「あの、何の話ですか?」
「貴方がその狗の宿主じゃなくて寄生先になっている、という事」

嫌な言い回しに、思わず足元に意識がいった。
そういえば先程からあまりジューダスの気配を強く感じない。
いつもざわついていて落ち着きがない狗が、
今は由乃の足元に大人しくおさまっている。
一体どうしたというんだろう。
一体、自分は何をしたのだろう。

「その狗の正体が分からない以上、私達には
 手の打ちようがない。
 多分アイツ……紋胤は何か知っているようだけど、
 ここまで来てもまだ白を知るし」

思い出し笑いならぬ思い出し苛つきをしたのか
舌打ちが聞こえた。

「お父さんが、何か知ってる?」

名雪がさらっと言った事に由乃は衝撃を受けていた。
初めて会い、いきなり同居する事になった時に
紋胤からも由乃の能力の正体は分からないと言われた。
一般的な日常の輪には戻れないと言われ、
生き方を教えると言われ、
なのにあれからよく分からないぼんやりした日々が続いていた。

「紋胤は貴方からその狗引っぺがして、
 普通の人間にして蜜ちゃんの所へ戻すつもりなんでしょうけど」
「ちょ、ちょっと待って下さいっ」

思わず口を挟み、腰のバネだけで上半身を起こす。

「普通の人間にって何ですか。
 あの人はあたしに日常には戻れないって言いました。
 なのにジューダスをどうにかしてお母さんの元へ
 返すって……そんなの聞いてません」
「んー」

名雪が赤い口紅に赤いマニキュアの指を添える。
トントンと指で唇を叩き、

「その矛盾はアイツが一番よく分かっているでしょうよ。
 現実を一番知ってるのもアイツで、
 それを一番どうにかしたいのもアイツなんだから」
「どういう事ですか?」

由乃の疑問に名雪が答えようと一度口を開き、
思い直したように閉じた。
再び唇を爪で叩いて、にやりと笑う。

「紋胤は貴方の父親だっていう事よ」
「? はあ……」

意味が分からず首を傾げるしかない。
紋胤の行動が矛盾していて、その理由に「父親である」という事が
どういう答えになっているのか。

「まあ、自分で考えなさいな。
 そこらへん家庭の事情だし、
 私がぺらぺら喋るのも野暮でしょう」

自分で考えろ。
以前、同じように紋胤の事について
東雲からも同じ事を言われた。
同居を始めて一ヶ月と少し。それだけで彼を
理解できたとは言えないかもしれないが、
それでも何も分かっていない訳ではない……と、思う。
一体自分は何を考えなくてはならないのだろうか。

「まあ、貴方自身が気付かなきゃ意味がないっていうのもあるし」
「はあ……」

曖昧に返すしかない。
そこで背中で鳴る金属を擦る音に、ふと思い付いた事を聞く。

「拘束っていつまでですか?」
「そうね。とりあえずは“上”に示しがつくまで……、
 でも本当はもっと早くこうするべきだったのよ。
 ウチで預かる方が周りも貴方も安全だったはすなんだけど……」

名雪がハイヒールでコン、と床を叩いた。

「でも、女の子をこうして閉じ込めておくのは気が引けるわ」

叩いた場所から、波が広がるように床に複雑な文様が浮かんだ。
円型の文様は時計の如く何かを刻みつけるように回り、
誰が見ても面妖な有様を描いている。
知識のない由乃でも直感で分かる。

これは由乃を――黒い狗を拘束する式だ。

「これ、私の家の十八番……と言っても絶縁状態だけどね。
 とりあえず勝手な真似させないような式なんだけど……
 宿主の意識があるっていう事はそれほど強力なのか、
 実家が大した事なかったかなんだけど」

どうやらジューダスの反応がないのはこの術のせいらしかった。
いわゆるファンタジー映画で見るような魔法陣ではなく、
和風のテイストが入った文様。
もしかしたら手錠の部分にも似たような模様が
刻まれているのかもしれない。

「気を付けなさいね」

また唇を叩きながら名雪が言う。

「それは、今は由乃を外敵から守っているかもしれないけど、
 寄生虫は寄生虫。宿主から絞り取れるだけ絞り取って
 食い潰す為にあるんだから」

黒い狗の本質は食い潰す事にある、と言った。
周りの力を取り込んで自身を肥大させる事が狗の本能だと。
時計のように回り続ける術式にジューダスは囚われている。
けれど無意識の底から唸り声が響いてくるのを
由乃は聞いていた。
時間が経って回復すれば、ジューダスはこれを食い破ろうと
するかもしれない。
そしてそうなればどうなるか分からない事を
恐らく名雪は知っている。

「あたしを殺した方が楽なんじゃないんですか?」

ポツリと、由乃は素朴に言ってしまっていた。
名雪は始め驚いたような顔をして、それから噴き出した。

「貴方ねぇ、それ紋胤の前で言っちゃ駄目よ。
 ほんと、なんにも分かってないお姫さま」
「…………」

小馬鹿にされたような気がする。

名雪は組んでいた足を解いて、淀みない動作で
ソファから立ち上がると扉へ向かって歩いて行く。

「そんな事はしないし、させないわよ。
 アイツとあの子の子供ですもの」

何か釈然としないものを由乃の胸の内に残したまま、
「また来るわ」とだけ言ってあっさりと扉が締められた。

部屋で一人になってしまった由乃はゴロンと寝転がった。
――そういえば学校どうするんだろう?
呑気な考えを始める由乃の足元で影がざわついていた。

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