第5幕/歪み少女 02

名雪が社長室の扉を開けると、
ふわりと爽やかな甘さの香りが鼻を柔らかく押した。
サングラスを掛けた真っ黒な出で立ちの人物――蕗時が
ちょうどカップに紅茶を注いでいる所だった。

「お疲れ様です、社長。
 カモミールティーをご用意致しました」

まるで自分がいつ戻ってくるのか、完璧に把握していたかのような
タイミングの良さに呆れさえ覚えながら
差し出されたティーカップを受け取る。

「気が利くわね、ありがとう」
「いえ。社長もお疲れでしょうから、当然です」
「お疲れ……ね」

平気なふりをしていても、実際に身体を襲う倦怠感はどうしようもない。
久しぶりに術を使った――しかもあんなに大掛かりなものを仕掛けたのは
いつぶりか思い出せない程遠かった。

――まったく、理解したくないけど私も若くないわね。

恭しく一礼して蕗時が下がる。
ふと、部屋のソファーにもう一人黒い人物がいる事に気付いた。

「なによ、ほんとの影みたいになっちゃって。
 気付かなかったわ」
「……うっせ」

ソファーに転がっていた紋胤は気怠そうに名雪を見上げた。
黒シャツをだらしなく着崩し、
深夜に飛び出してきた時の格好のままだ。

「一晩で蠱毒とか由乃のアレとか、
 辰三んとこの子飼いまで相手して疲れたんだよ」
「情けないわね。もう若くないって事かしら」
「そりゃお互い様だろ」

ぐっと、咄嗟にティーカップを投げつけそうになるのを堪える。
若くない、自分で自覚するのと、人に言われるのでは全く重みが違うのだ。

「で……由乃は?」
「ちょっと手荒な真似をする事になっちゃったけど、
 まあ何とか大人しくさせる事は出来たわ。
 ……正直、今までの十六年、よく無事だったと感心するわね。
 普通だったら暴走するか、逆に呑まれるかしていると思う」
「……由乃のは生まれ持ってのものだ。元々適正がある。それに……」
「それに?」
「……蜜が、なんかしてたのかもな」
「――そーね」

紋胤が“彼女”の事を自分から話すのは珍しい。
少なくとも、自分の前では。

『人でなし』が愛した人にして、今地下に閉じ込められている少女の母。
過去に振り回された怪異に今も呪われている、かつての名雪の友人。

――いま、どんな思いでひとりでいるのかしら……。

想像してみても、分からない。
彼女は考えの読めない独特なペースがあった。
悲嘆に暮れるほど柔な性格ではないが、それでも

――怒るわよね。今の状況を知ったら。

「……おい、社長」

紋胤の声に思考の深みから引き戻された。
らしくもなくネガティブな考えの方に
引きずられそうになっていたらしい。

「どーした。しんみりしやがって、気味が悪いな」
「紅茶ぶっかけるわよ」

コップを傾けるふりをすると、慌てた紋胤がソファーから跳ね起きた。

「ああもう、ふざけてる場合じゃないのよ。
 折角あっちから、のこのこ穴蔵から這い出て来たんだから、
 このチャンスを逃す手はないでしょう。言ってる事分かるわよね?」
「そりゃ分かるけどな。わっかりやすい尻尾に飛びついて大丈夫か?」

この深夜の一件で辰三たちは、ろくに足跡消しもしないまま逃走している。
あの男の事だ。不測の事態だったとはいえ、
痕跡を残して逃げるようなへまはしない。
あの男は蜘蛛なのだ。入念に罠を張り巡らせて、
獲物がかかるのを待っている。

――あんたのやり方は知っているわ、辰三。
  隙のない準備、布石があんたの勝利の殆どを占めている。

「罠が張られているのなら、罠ごと壊せばいいのよ」

ティーカップに残ったカモミールティーを一気に飲み干す。
それだけで疲れた体が癒される事はないが、
それでも名雪は不敵に笑ってみせた。

「紋胤。朝方にまた連絡するから、
 一旦戻って少し休んでなさい」
「……由乃は」
「それは私が責任を持って守ってあげるわよ。
 この場を預かる者の責務に賭けて」

わざとハイヒールを高く踏み鳴らす。

「心配しなくても、辰三にとどめを刺す役割はアンタに
 残しといてあげるわよ」
「それは有難いけどな、やっぱあんたって怖ぇわ」
「ブラック企業ならぬダーク企業って所ね」
「笑えねーぞ。……ま、頭で考えるのは任せるわ。
 俺は社長様の仰せの通りに」
「よろしい」

自分は今度こそ、この子たちを守らないのいけないのだ。
その為には、まず諸々の障害を取っ払ってから。

――親子の時間をちゃんと作ってあげる所からかしらね……。

× × ×


――明け方。
キャットウィスカー・マンション一階、『猫のひげ』。

朝の開店準備を始めている東雲の背中に、
のんびりとした声がかけられた。

「東雲さん。おはよーございます」
「なんだい崎。いやに早いじゃないか」

健康サンダルをペタペタ鳴らしながらマンションから降りてきたのは、
住人の日車崎だった。
いつもの白衣を上着代わりに寝ぼけ眼をこすりながら、

「なんか目が覚めちゃって~。『猫のひげ』で早めの
 朝ごはんにしようかなーって」
「アンタね……開店準備は今からだけど、実際の開店は
 あと一時間も後だよ」
「あれ~、そうでしたっけ?」

きょとんとした崎の顔に怒る気も失せたのか、
東雲は仕方がないとばかりに腰を持ち上げた。

「仕方ないねえ。今コーヒーとサンドウィッチを作ってやるから、
 その代わりアンタが店内を掃除するんだよ」
「は~い。ありがとうございます~」

箒をおもちゃのように振りながら鼻歌交じりに掃除をする崎。
その姿に若干不安を覚えながらもキッチンの方へ向かっていく。

「それにしてもアンタがこんな朝に目が覚めるなんて珍しいねえ。
 いつも昼まで寝てるじゃないか」
「そうなんですよー。不思議ですよねぇ」

崎は箒に顎を乗せ、自分でも心底不思議だというように

「なんだか……ざわざわーっとして、落ち着かなくて……」
「ざわざわ……?」
「はいー。それでなんか眠くなくなっちゃいました」
「はあ。胸騒ぎとかいうやつかい?」
「さぁ~?」

緩い返答にこちらの気まで抜けそうになる。
これ以上崎に聞いてみても明確な答えはもらえないと判断した東雲は、
「掃除任せたよ」と言って奥へ引っ込んでいった。

東雲がキッチンへ消えてから数分。
冷えた店内を掃除する東雲がふいに声を上げた。

「ん? ……なんだろう、あれ」

独り言のような声は東雲の方までは届かない。

西の空――まだ太陽の光を薄く移すだけの空に
何か“ゆらり”としたものが浮いていたような気がしたのだ。

「ん~……?」

鼻からずり落ちそうになる眼鏡を押し上げて、
目を凝らすもその正体は見えない。
そもそも今見えた気がしたものが本当に確かなものであったのかさえ、
分からなくなってしまうほど、それは一瞬だった。

「鳥だったのかなぁ」

――それにしては、何か、凄く嫌な感じがしたけど……。

気のせい気のせい、と自分に言い聞かせるようにして
崎は店内の掃除を再開させた。



崎が見た、西の方向。
そこではけたたましく一方の方向に向かってカラスや鳩、野良猫が騒いでいた。
まるで常人には見えぬ、何かをを威嚇するかのように――

「なんだ……?」

早朝の駅のベンチ。
人気のない場所で“カラスの目を通して”その異様な
光景を見た璃樹は不審な声を上げた。

「まーたおかしな事が起きてやがる……、
 あー、やだな。これ会社行かなきゃダメかな。
 今仕事する気分じゃねーし……適当に女の所行って休みたい……」

携帯電話の電源を入れ、アドレス帳を起動する。
とりあえず何かやばそうではあるけど、一休みしてからでも遅くはあるまいと
今からでも受け入れてくれそうな女のリストに目を通し――
とある女の名前で目が留まった。

「…………いやいや。ねーわ。
 あいつ、あの野郎の娘だし。胸ねーし。
 そうだよ、あいつ胸無さ過ぎんだよ。ほんとは全然好みじゃねー」

誰に対して言い訳をしているのか、
ぶつぶつ零す璃樹の上空でカラスの鳴き声が響いた。

「……わーったよ、ティシポネー。会社行けばいいんだろ、行けば。
 なんだかんだあそこが一番安全な訳だし」

グッと背伸びをしてベンチから立ち上がる。
今しがた視た光景に胸騒ぎを覚え、自然と足取りは早くなる。

「駅前でタクシー拾うか……」

ここから見る西の空は、まだ異常はない。
ただカラス達、動物の告げる警告が何かが起きると警告していた。
社長たちは近いうちに何か大きな異常が起こると言っていたが――

「ほんと、めんどくせぇ……」

璃樹の小さなぼやきを諌めるようにカラスが鳴いた。

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