第5幕/歪み少女 03


陽の光が割れたガラスで歪に反射する。
差し込む朝日を避けるように暗い部屋の隅で
赤音は眠っていた。
横にならず、膝を抱えて座ったままで寝ていた彼女は
近付いてくる足音で目が覚めた。
普段の彼女ならここで怯えきった態度を取って一目散に
物陰に隠れる所だが、彼女にも例外がいる。

「先生」

現れた辰三に赤音は和らいだ表情を見せた。

「おはよー、赤音。良い子の朝は早いねぇ」

辰三の右手には校庭などで白線を引くための
ラインマーカーが握られていた。
既に使い倒した後なのか、タイヤは既に白く汚れている。

「先生、準備できたの?」
「おう。ばっちり。あとは赤音たんがいれば
 人でなしもカラスも怖くないよー」

準備は整った、と男は赤音の頭を撫でる。
極度の対人恐怖症である赤音が唯一、
触れる事を受け入れられる人物。

――先生は優しい。
  わたしを殴らないし、酷い事を言ったりもしない。

「今は周りを木春が見張ってるし、
 赤音の出番はもうちょっと後でいいよ。
 だからまだ寝てな」
「うん。でも大丈夫」

折角起きている間に辰三が傍にいるのだから、
もう少しだけ撫でられていたかった。

引きずりそうなほど長い髪を無骨な手が柔らかく撫でる。
しばし伝わる感触を全霊で受け止めながら、
赤音は静かに問う。

「もうすぐなんだね、先生」
「うん、そうだよ。赤音」
「失敗したりしない?」
「大丈夫、大丈夫。何か起きても先生が何とかするよー」
「うん。きっとだよ、先生」

赤音の願い。
叶う事なんて有り得ないと思っていた願い。

「ぜったい、全部殺してね」
「はいはい。分かってるよー、赤音ちゃん」

歪んだ差し込む朝日は避けるように、
二人を照らさない。
これがきっと最後の朝なのだと思うと、
生まれて初めて清々しいという気持ちになれた。

   *

「お待ちしておりました。君影様」

恭しく腰を折る蕗時の姿を確認し、
璃樹は自分の判断が間違っていた事を悟った。
嫌な予感がして安全な会社で嵐が過ぎるのとを待とうとしてのに、
どうやら“ここ”が嵐の渦中であったらしい。

蕗時はあくまで丁寧な態度を崩さないが、
彼、もしくは彼女の背後には黒のセダンが
会社の前を塞ぐように置いてあり、
そして促すように後部座席側のドアが開いている。

「家出後初めての帰省はいかがでしたでしょうか」

あからさまな嫌味を無視し、
なるべく顔を合わせないように視線を逸らす。

「帰省から戻られたばかりでお疲れの所、
 大変恐縮では御座いますが――」
「その後ろのに乗れ、と」
「話が早くて助かります」

こうなってしまっては拒否権はないし、
逃亡も許されないのは分かっている。
それでも何とか隙はないかと上空の
カラスに意識を向けた瞬間、
前にいたはずの蕗時の声が背後から聞こえた。

「お急ぎください。申し訳ございませんが、
 社長命令ですので」
「……そういえばオレ、腹減ってんだよね」
「車内でも食べられる軽食をご用意しております」
「風呂入りたいから銭湯に行ってきてもいいスか」
「一刻を争う事態ですので」

後ろから迫る人のものとは思えぬ気配に
前進するしかない。
結局車の前まで追い詰められた璃樹は
観念して大人しく従う他なかった。

「では、向かいましょう」
「言っておくけど、今、銃持ってないからな」
「いつもご愛用しているものを
 トランクにご用意しております」
「……ほんと用意がいいな」
「恐縮です」

褒めてねーよ、と胸の内だけで毒づく璃樹を乗せた車は、
まだ人通りのない早朝の道を
滑るような静かさで走り抜けていく。

「ご安心ください。君影様は今回、前線ではありません。
 いつものように状況を把握して頂き、適宜報告頂ければと」
「今回も何も、そもそもオレは前線じゃねーっつの」
「いえいえ、ご謙遜を。以前、茸宮辰三の子飼いと交戦の際は
 華麗な銃の腕前により染井様を救出したと伺っております。
 社長も、君影様のご活躍を期待しておりますよ」
「……茸宮、ねぇ」

以前、夜道で出くわしたあの眼鏡の少年。
彼は茸宮辰三という男の子飼いだという話は聞いていたが、
そもそも璃樹は辰三という男を知らない。
知らないが、その男のせいで社長も紋胤も
ピリピリしており、何か因縁のある相手だという事は
聞かされなくても肌で感じている。

それ以上聞くのは、ただ面倒な感情が
増えそうなだけのような気がして口を閉ざした。

「……ところで、どこに向かってんのコレ」
「目的地は郊外ですが、
 途中で桜橋様を拾いに向かっております」
「…………」

それは社長命令なのか、蕗時の判断なのか。
どちらにせよ、自分たちに対する嫌がらせには間違いなかった。

   *

蕗時、璃樹、紋胤の三人。
車は窒息しそうなほどの無言の重圧を乗せ、
あるマンションの前に着いた。

郊外、といえば聞こえはいいが
ようするに人気のない、開発から見放された
寂れた場所だった。

恐らくバブルの終焉時に建設が途中で放棄されたのだろうか、
人の手が入っていないマンションはほぼ朽ちかけで
いつ崩れるとも分からない。

「……ここに来んのは二度目だな」

車から紋胤が小さくつぶやく。
いつも華美な服を来ている彼には珍しく、
この日は黒のジャケットにシャツという地味な格好だ。
ブーツだけが女物のように華奢なデザインだったが、
歩く度に重い音を立てるあたり、
おそらく靴底に鉄板か何かを仕込んだ特注だろう。

数か月前に、彼はここに来ていた。
いつしか蕗時が地図上で示した六芒星、
その最初の点となる場所。

「『事が起こったら、すぐに走れ。
 時間は稼ぐけど期待しないでね』」
「は?」
「社長からの伝言です」

蕗時は車の後部、トランクを開けると
スーツケースを取り出し車内から出ない璃樹に手渡す。

「銃はこちらに。急ぎでしたので弾の予備が御座いません。
 今装填されている6発で全てです」
「どっかの誰かさんがしっかり働いてくれりゃ
 一発も使わずに済むんだけどな」
「おーおー、普段ろくに働かねー奴が
 でけぇ口叩くじゃねえか」
「殺すだけの馬鹿と違って俺は穏便なんだよ」
「無駄撃ちせずに一発はとっとけよ。いざって時に自分の頭に
 打ち込む為にな――と、言っておきたい所だが」

とん、と紋胤が地面を、己の影を蹴る。
それに呼応して陰から鎖が伸び、先が鎌を形成した。

「今日はお望み通り、いい働きしてやるよ。
 俺が全部片をつける。ボンボンは手出しすんなよ」

日は既に上っている。穏やかな朝の元に似合わない
黒い男が凄惨に笑う。

「……それで、社長の『事が起きたら』って
 どういう意味だ、蕗時?」
「ええ、まあそれは見れば分かります」
「見ればわかる?」
「恐らくあの建物の中にあの男はいるでしょう。
 桜橋様もご存じのとおり、彼がただあそこにいるとは
 到底考えられません。
 まずは私と社長で準備した罠を壊すための罠を起します」
「罠を壊す罠ねぇ……」
「少々お待ちください。すぐに済みますので」

そういって蕗時は軽く腰を折ると、
二人を残して言葉通り突然消えた。
たった今自分は気を失っていたのだろうかと
疑いたくなるように突然消えても、
蕗時にはよくある事なので今更
紋胤も璃樹も驚いたりはしない。

「……消えたり現れたり、忙しいな」
「とかいいつつアイツが忙しそうにしてる所なんて
 見たことねーけどな。……おい、あの中どうなってる」

マンションの上空を璃樹のカラスが飛行している。

「あー……――駄目だ、見えねぇ。
 窓とか穴から中を覗こうとしても靄がかかったみたいに
 見えねえし、カラスが中に入れないようになってる」
「んだよ、役にたたねーな」
「うっせーなぁ。オレだって一度しか会ってねーのに
 もう対策されてるなんて思ってなかったっつの。
 これはもう、大人しく社長の作戦に期待を――」

璃樹が途中まで言った時だった。
唐突にカラスが発する警鐘に、一瞬目の前が真っ赤に染まる。
彼の視界が戻った時、今度は音が彼の思考をつんざく。

――爆音。

およそ平和な日本の街において、まず生で聞く事がないであろう
爆風と炎が蹂躙する音。
まるで映画のような光景だが、うねる熱の空気が、
コンクリートの抉れる音がこれは現実だと突きつけた。

目の前にあった崩れかけのマンションはまるで巨人に
上から潰されたかのように、一階から瓦解する。
尋常ではない粉塵を巻き上げながら、
一つの建物が解体された。

「……な、な……何これ」
「罠ごと壊すってそういう意味かよ……」

もはや呆れしか滲まない声で紋胤がつぶやく。

社長が言った「罠が張られているなら、
罠ごと壊せばいい」という言葉の意味をようやく理解する。
ただそのままの意味。罠の張られた戦場を、
場所ごと吹き飛ばしたのだ。
丸ごと焼き払われてしまえば術式も結界も意味がない。

正面突破ならぬ正面爆破。確実、かつ豪快過ぎる
作戦ともいえない有様。
ここまでの騒ぎを起こしては今から人払いの結界を
張っても意味をなさないし、十数分後には野次馬や
警察、消防隊がここまで駆けつけるだろう。
よもや自衛隊まで動いてくるかもしれない。

事が起こったらすぐに走れ。時間は稼げない――
頭ではすぐに行動を起こさなければならないのは
分かっているのだが、二人は暫く呆然とするしかなかった。

「おい、桜橋。
 社長って実はアホなのか?」
「ああ、俺も今そう思った所だ」

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