第5幕/歪み少女 04


1メートル先も見えない砂埃の中に影を伸ばす。
影が反射してくる感覚を頼りに、紋胤は崩れたビルの中に足を入れた。
ビルはいまも崩壊を続けており、彼の侵入を誤魔化してくれてはいるが、
同時に油断すれば落下してきた建材に自分が圧死されかねない。

「これアスベストとか大丈夫なのかよ。
 なんかあったら保険下ろしてもらうからな、社長……」

ジャケットの襟で口周りを塞ぐ。常人離れした彼でも流石にこの土煙をもろに吸う訳にはいかない。
息を殺して、目を細める。どのみちこの砂煙の中で視界は役に立たない。
耳を澄ましても轟音の名残と、パラパラと破片が崩れる音しか聞こえなかった。

「…………」

崩れたビルの下敷きになり全滅……普通なら、そう考える。
だが自分を含め、今この場に集まった全員が普通ではない。
仮に眼鏡の少年や、報告で聞いている少女が死んでしまったとしても、
あの男だけはのうのうと抜け出している可能性がある。

外に出ればカラスから伝わり、璃樹が知らせる筈だ。
音もなく影が伸び、探るように前へ。

――影が違和感を捉えた。

咄嗟に前へ突っ込むように飛び出す。振り返れば、一瞬前に立っていた場所は黒く泡立っていた。
黒い溶岩のようなそれは、重く粘着するような音を立てて地面を崩す。
崩れて出来た穴の底から――赤い光が漏れていた。

「――――」

己の影から一対の鎌が飛び出す。
両手に構えたそれで、紋胤は躊躇なく地面を破壊した。
破壊した箇所はぽっかりと穴が開き、
おそらく駐車場にする予定だったのであろう、地下空間に舞い降りる。

所々で先程の黒い溶岩のようなものが泡立つ。
その発生源らしき場所では空間が抉れていた。
抉れた三次元の穴から、不気味な赤光が溢れている。
その光は地下空間を守るように薄くベールを広げていた。
猛烈な砂煙の中、その光の中は何事もなかったかのように在り続けている。

「元々この場所は名雪ちゃんにばれていたみたいだなぁ。
 留守を狙って爆薬仕掛けておくなんて酷いや。
 術的な仕掛けはすぐ気付けるけど、
 こういう物理的な仕掛けは分かんないんだよね」

赤い光の前に立つ男は、崩れたビルを見上げながらも笑っていた。

「でもすぐに叩かないのは彼女の悪い癖だね。
 罠しかけて俺の鼻を明かしたかったみたいだけど、
 そんなことせず、即爆破してれば俺の手順を狂わす事が出来たのに」
「……それも込みで、お前の手順通りだったんだろ」
「正解っ。そして、残念でした。
 遅かったね、お前はまた間に合わなかった訳だ。紋胤?」

ごぽ、ごぽ、と音が響く――辰三の身体から。
彼は毒々しい輝きの中心に右手を突っ込んでいた。
その右腕から、あの黒い泡立ちが発生していたのだ。

「ああ、気分がいい――人間のままじゃ考えられないくらい。
 サイコーに気分がいいよ」
「……周りは俺のことを“人でなし”と言うけどな、
 俺からしてみりゃ、てめえの方がよっぽど狂ってる」

鎌の先を辰三に向ける。
既に彼は『茸宮辰三』とは言えないのかもしれなかったけれど。
何か、別のものに摩り替ったのか、成り変わったのか。
人間の姿をしていても、もはや辰三の成れの果てにしか感じられない。
それでも、紋胤の中に、同情も慈悲も一切ない。

「――斬る。絶対にだ」
「やってみろよ、クソ餓鬼」

辰三が右腕を引きずり出したのと、紋胤が地を蹴ったのは同時。
二人の男が練り上げた呪力が、空間が割れるほどの咆哮を上げた。

+ + +

「……あのカマ野郎、どこ行ったんだ?」

砂埃が収まり始めたビルの近く。
崩れた外壁から中を覗き込むように璃樹は周辺を歩いていた。
偵察に先行した飛ばしたカラスと、上空を見張っているカラスからは
特に異常の信号は見られない。
もし人が集まりだしたりパトカーが来るなら自分だけでも逃げる気ではいるが。

――あの茸宮とかいう連中と桜橋共々、どっかで挟まってりゃ万々歳だけどな。

そんな風に死ぬタマではない事は分かってはいる。
手の中、銃の感触を確かめながら慎重にビルの残骸へ近づく。
帰りたいのは山々だが――あの眼鏡の少年がここにいるのなら、
可愛い子飼いを傷付けたお礼に一発お見舞いしてやってからでも遅くないだろう。

「さて、鬼が出るか蛇が出るか……いや」

それ以上のものしか出てこないか、と一人で呟き
ビルの中から安全に中へ侵入できそうな場所を探す。
裏手に回った所で、背後から軽い足音が聞こえた。
何か薄ら寒いものを感じ、咄嗟に身を捻る。

「――っと」
「きゃっ……!」

可愛らしい悲鳴と共に、璃樹の背後に迫っていたものは
あっけなく転んだ。今時珍しいくらいに髪が長い、年端もいかない少女。
背には赤いランドセルを背負っている。
一瞬、この爆発騒ぎに巻き込まれた子供かとも思ったが、
彼女の手に握られていたものを見て、茸宮の一派に幼い女児がいることを思い出した。

「ぅ、うぅ……!」

震える幼い手には包丁が握られていたのだ。

「おいおい、さすがに小学生に手を出した覚えはねえぞ」

包丁を少女の手から蹴り飛ばす。
銃口を向けてみても、少女がガタガタと震えているだけで
何の抵抗も見せない。

「お前なに? 茸宮とかいうののお仲間?」
「…………」

少女は何も答えない。
ただ吹雪の中へ放り出されたかのように震え、己自身を掻き抱くだけだ。
自分の性根が腐っている自覚のある璃樹でも、何の抵抗もしてこない
子供を問答無用で撃ち抜く気にはなれない。
ただでさえ日頃から夢見が悪いのに、これ以上悪くなるのは御免だ。

「……あー……大人しく投降すりゃ、
 ウチの会社がお前を保護してくれ……」
「――な……きゃ――」
「あん?」
「役に立たなきゃ……役に立たなきゃ……
 先生の、役に立たなきゃ……!」

少女はランドセルから新しい包丁を取り出し、
乞い願うような――それでも明確な殺意を持った目で璃樹を射抜く。

「お願いします、死んでください、先生の為に……。
 結界が全部壊れちゃった、もう、もう私はこうするしか……
 私は先生の役に立ちたい、誰もいらない先生しかいらない、
 パパもママも木春もあなたも黒音も――みんな……」

それまでの震えが嘘のように彼女を包む気配が静かになった。
まるで彼女の中身、性格というものが全て裏返ったかのように。

ゆらり、と刃の先が揺れる。
一瞬の躊躇の後、額に照準を合わせ――沼の底のように濁った瞳に、
幼い自分を見た気がした。

動揺が、引き金にかかる手を止める。
一秒に満たない隙、それでも死神が笑うには充分だった。

「――みんな……死んじゃえ……」

自身の胸から生える銀色の刃を見つめながら、
不思議と冷静な頭で、ぼんやりと考える。

――いつか女に刺されて死ぬとは思ってたが、
  こんな小さいガキとはなぁ……。

急速に指先が冷えていく。反して胸の部分が酷く熱い。
死神が囁くままに、璃樹は意識を手放した。

 + + +
 
グゥ、と腹が鳴った。自分のではない。
拘束されて寝る事しか出来ない由乃は、
ぼんやりした意識の中、“狗”の訴えを聞いていた。

今まで喰った事がないほどの大きなの呪力が動いている。
食べたい食べたい食べたい、腹が減った。
ああ、今から咀嚼するその瞬間を想像するだけで
堪らないのだと狗は喉を鳴らす。

「――――……」

床の陣が電流のような、炎のような光を放ちながら
焼け焦げ薄くなっていく。
己にとってこんな結界なんともないのだと笑いながら、
狗は自らを拘束する縛鎖を食い破っていく。
名雪の術が弱かったのではないのだろう。
そもそも次元が違ったのだ。
前提として彼女の法で縛れるような存在ではなかった、
というだけの事。

燃えるような音を立てて最後の陣が焦げ落ちる。
ご丁寧に由乃を縛る縄をも食い千切って、
黒い狗は主の前に姿を現した。
光を反射しない影が立体化したような黒は
吸い込まれそうな魔力を放っている。

ご主人様の為にこんなに良い働きをしたのだから
褒めてほしい、とばかりに犬は少女の足に顎をのせる。

「……ジュー……ダス……」

鮮やかながらも暗い狗の赤い目。
きっと悪魔の血はこんな色をしているのだろう。

――さあ、ご主人様は頼りがないから
  己が取って代わろう。己が導こう。

眠る子をあやす優しさに満ちた、悪魔の囁きが聞こえる。
ぼんやりしていた頭に、更に霧がかかる。
霧の先に見える自分の後ろ姿を追いかけようにも、
どんどん濃霧は深くなって
自分というものが上手くイメージできなくなっていく。
駄目だ、と思っていてもこの異形の囁きを跳ね除ける程の
強さと自己が彼女には備わっていなかった。
産まれた時から、彼女の中にいた黒い狗。
自身の中に穴をあけてそこに住まっていた狗が、
今まさに食い破り、這い出ようとしていても
彼女は成す術もなく霧のより深い方へ墜ちていくしかなかった。

――さあ、行こう。食事の時間だ。