第5幕/歪み少女 05


強いて例えるならば、肉の石が割れるような不快な音が鼓膜をつんざく。
硬質な、だが柔らかいものを食むような湿り気も混ざった不愉快な音。
悪魔を引き裂いたら、このような音がするに違いない。
意思と反して、全身の鳥肌が勝手に総毛立つのを感じながら
紋胤は目の前の化け物を見下ろしていた。

その男は完全に飲み込まれていた。
実に満足そうな顔を浮かべた顔は透けて向こうが見えている。
全身影のような黒い霧に包まれ、指先は絶えず揺らめいている。
光を反射しない闇をまとったそれが動く度に、壊死するように足元が崩れ、
また瞬時に足の形が模られていく。
人の形はとっているが、もはやそれさえも「かつて人間であった」という残滓に過ぎない。

「――――見える」

一人何か呟く男には答えず、紋胤は鎌の鎖をピンと伸ばし――巨大な魔鎌を形成する。

「見える、聞こえる、解る……
 これが、これが世界の有様……!」

煉獄に墜ちた男は、まるで楽土にいるかのような声を上げる。
彼の喜びに合わせて、まとう黒い煙が細かく揺れた。
その度にハエが一斉に飛び立つような音が響く。

対峙する紋胤はそれを冷静に見定める。
思考は凪いでいた。
だが、生物の本能が知らず知らずの内に冷や汗を出させ、鳥肌を粟立たせる。
人が立つべきでない場所に立ち、見てはいけないものを直視している現状に
生身が耐えられずに悲鳴を上げていた。

――情けなく震えてねえで、しっかり動けよ……!

手の先、足の先、鎌の刃先まで己の一部。
感覚を限界まで研ぎ澄まして放った一閃は、黒い男を二つに分けた。
手ごたえは、ない。補うように湧いた黒霧が再び男を模る。
所詮煙を切ったようなものだ。揺らいでいる目の前のそれは、
既に本体から離れた触手のようなものらしい。

「あっはっは、何それ?」

お返しとばかりに、霧が弓矢のように飛びかかる。
雨のごとく降り注いだそれらを正確に撃ち落とし、避けながら、
やはり影を切っても何の苦痛も浮かべない辰三を見ながら歯噛みする。
人に斬れるものではない。

――いや、これでもまだ「人でなし」のつもりだ。

影の背後。
赤く口開けた割け目を見据える。

――あれか。

蕗時なら、と考えて頭を振る。
これは奴の手にさえ余るかもしれないし、
今は観客の立場を決め込んでいるに違いない奴を当てにするなど出来ない。

もう一度、大鎌を形成する。
封じるとか直すとかそういうのは得意ではない、己の専門分野は破壊だ。
だから壊すしかない。あの裂け目ごと、辰三も異次元と化したこの空間ごと何もかも。
昔からそうだ。自分は壊すしか能がない。
だから何となく悟ってはいた。
いずれは自身さえも壊して最後は死ぬんだろうと。

祈るべきも縋るべきも何もない。あるのは己自身。
たった二人、脳裏に女の顔が浮かんだが、それさえも振り切って。
獣のような咆哮を上げながら紋胤は吶喊した。

+ + +

自分がまだ生きている事に驚いた。
ビル倒壊の際の膨大な粉塵のお陰で、空も見えない。
急速に熱を失っていく己自身をどこか傍観するように感じながら、
璃樹は仰向けになっていた。

――死ぬほど痛え。

生きていると言っても、もはや時間の問題であるらしい。
自分にナイフを突き刺した少女は、あの後泣き喚きながらどこかへ消えた。
トドメを刺されると思っていたので助かったかと考えたが、
どちらにせよ心臓近くを刺された身体は、すぐに足の力が抜けて
声を上げることも出来ずにその場に倒れこんだ。

――つか死ぬのか。

笑いがこぼれた。おそらく顔は痛みに歪んでいるのだろうが、
気持ちとして璃樹は今笑っていた。
年齢がやや想定外だったとは言え、女に刺されて死ぬ。
周りから何度もお前はきっとそうやって死ぬのだと言われた。
璃樹自身もそう思ってはいたが、まさか本当にその通りになるとは
因果というやつは案外律儀なものだ。
笑えない。全く笑えないが、何故か可笑しくて堪らない。

自分の胸に手を添えると、生暖かく赤黒い血がついた。
幼い頃、お前の血は汚いと大人に言われたことがある。
確かに汚いな、と思った。
自分のものはいつだって人のものよりも汚く見えていた。

カア、と耳元で間抜けな声がした。
見れば唯一の友であるカラスが彼を見下ろしていた。

「……ぁ」

口を開くと、鉄の味がした。不快なものを一度吐き出してから、
璃樹は目線だけで黒い友を見やる。

「いや、もう用はない。
 ……どこへでも飛んでいっちまえ」

意識が朦朧としてきたせいか、
自分の意思がカラスに伝わったのかいまいち自信がない。
だが黒い彼は一際高い声で鳴くと、粉塵をものともせず
高く飛び立っていった。

視界が歪むのが、粉塵のせいなのか、
目の機能が停止を始めているからなのかもう分からない。

――これでオレもあの世行きか……。

天国と地獄というものは信じていない。
というよりも死後の世界が分かれていたら困るのだ。
天国と地獄が存在するなら自分は間違いなく後者行きだ。
それだと天国へ行っただろうあの人に会えなくなってしまう。

さあ目を閉じようという時に、視界の端に人影が揺れた。
誰かは分からないが、女というのはシルエットで分かった。
だが自分を刺したあの子どもよりは大きい。
遂にあの世のお迎えなら、せめてどんな美女が迎えに来てくれたのか
顔だけでも拝んでおきたかったが、
その最後の邪な願いが叶う前にプツリと意識が途切れた。

+ + +

――景色が物凄い速さで流れていく。
――つい最近もこんな光景をみたような気がする。

ぼんやりとした景色を眺めている間に、彼女はいつの間にか止まっていた。
見知らぬ場所だ。酷い土煙でよく見えないが、
辺りを見るとコンクリートの建材が転がっている。

「ビルが……壊れている」

目の前の光景を口にしても現実感がない。
大事故が起きたかのような光景を前にしても、
驚きも焦りも浮かんでこなかった。
感情や心と言ったものが乖離したかのように。

「…………」

由乃は歩き出した。歩いているのは確かに自分の身体なのに、
どこへ行こうとしているのかはまるで分からない。
だが足は迷いなく歩いている。
代わりに自分ではない誰かが中に入っているかのように。

「…………」

ここは何処だろう。
――ここは餌場。

どこに向かっているんだろう。
――饗宴の会場に。

何をしようとしているんだろう。
――愚問、食事のために。

「…………」

湧きあがる疑問に、誰かが内から答えている。
思考に靄がかかっているというより、
もはや頭そのものが靄となってしまったかのような。
己の脳の存在さえ疑わしいほど――

「……、……ん?」

視界の端に知っている顔が映り、足を止めた。
彼女自身が足を止めたことに内なる声が不満げな気配を漂わせる。
何をしているんだと言いたげな唸り声が聞こえたが、
こんな場所に知り合いの顔があるなら確かめておかなければという気持ちが
進路を曲げさせる。
己の意思というよりは染みついた良識に則った行動に近かったが、
その瞬間は確かに、彼女は自身で動いて彼を確かめたのだ。

瓦礫の隙間に横たわる、血の上に倒れた君影璃樹を。

「……璃樹さん?」

知人の無残な姿が僅かながら由乃の中の感情を揺り動かして、
喉を震わせた。

「もしかして死んでる?」

それがどうしたと言いたげに影がざわつく。
だが彼の生死を確認するまでは動かないと思ったらしい狗は、
鼻を鳴らしつつ端的に答え始めた。

「ねえ、この人まだ生きてる?」
――もうじき死ぬ。

じきに死ぬ。つまり今はまだ生きているということらしい。

(……死ぬ……)

良い思い出がないとはいえ、知り合いが目の前で虫の息になっても
大して悲しいとも焦りも浮かばない自分は冷たいのだろうか。
ここに流れている大量の血がすべて彼のものだとすれば、
致命的であることは誰でもわかる。今から救急車を呼んだところで
璃樹の脈が止まる方が早い。

影がぐずる。由乃が少しでも自我を取り戻し、考えを始めたことが不満らしい。

「餌ってこの人のこと?」
――大した力は持っていない。この男は喰うに値しな……。

声が何かに気付いたように、止まった。
そして音も無く影が立体に浮かび上がり、狗の形を取り璃樹に近寄った。
食うつもりなら止めに入った方がいいのだろうか、と考えたが
狗は品定めでもするように彼を見下ろすだけだった。

――腹を満たすに値しない。が、特殊で面白い。

特殊というのは彼のカラスと意思疎通出来ると言う能力の事だろうか。
確かにそんな話は他で聞いたことがないが、それを言うなら自分も同じだ。

――眷属を従え易い力だ。
「ケンゾク?」

由乃の疑問には答えず、クッと、狗は喉を鳴らして笑った。
そして彼の胸――今気づいたが、服が避けそこから未だに血が滴るそこへ、
狗が真っ赤な舌を伸ばす。

「やっぱり食べるの?」
――喰わない。

舌よりも血よりも赤く、濁った目が嗤う。

――それよりも誉れ高いことだ。