第1話/奏 ~Maternal Melody 01

目の前に馬車が迫って来ていた。
急いでいるのだろうか。物凄いスピードだった。
石畳を車輪が打ち鳴らして、馬の黒い鬣が風になびく。
御者の男の目が驚愕に見開かれる。
ちょっと可哀想だな、と思った。
この人は、今自分が避ければ注意を受けるだけで
御者の仕事を辞めずに済むだろう。
だけど自分に馬車を当てれば間違いなくクビだ。
少女は心の中で「ごめんなさい」と謝った。
それでも、突進して来る馬車を避けようとは欠片も思わなかった。

周りの風景が、世界がゆっくりゆっくり進んで行く。
角を飛び出した途端、不運にも迫って来た馬車。

少女は何の抵抗もせず――
ただ呟いた。

――さよなら。ママ。

   + + +

アイオニアは背後で物凄い音がするのを聞いた。
長い銀色の髪を躍らせながら振り返ると、巻き上がる砂塵の中に
バラバラになった馬車が見えた。
周囲の人達が駆けつけようとしたその時、瓦礫と化した馬車の
下から赤い液体が石畳の上を伝う。
徐々に大きく広がって行く赤色を見て悲鳴が上がった。

「きゃあああああ!!」「馬車に」「一体何が」
「女の子がっ」「下敷きに」「轢かれた!」
「ここら辺に医者は」「早く助け出すんだ!」

一つの悲鳴から周囲に騒ぎが伝染して、
たちまち大きな混乱を呼んだ。
アイオニアは、その中でも一際甲高い悲鳴を上げて
馬車に駆け寄る女性の姿を見た。
豊かな栗色の髪に、高級そうなドレスを着た人だった。

「娘がっ……娘が、チェルロが……!!」

厚化粧の顔を絶望に歪めて細い腕で瓦礫を必死にどかそうとする。

「チェルロ! ああ、チェルロ! チェルロっ!!」

馬車に轢かれたのであろう人物の名前を叫びながら。
他の人が止めに入っても女性は狂ったように
馬車の成れ果てに手を伸ばす。
周囲の手も加わり、ほどなく赤塗れの少女が引きずり出された。
あの女性と同じ栗色の髪は埃を被り、
白いブラウスは赤黒く染まっていた。
母親らしき女性がこの世の終わりを告げるように泣き叫ぶ。
女性が身に付けている豪華な装飾品が虚しく輝いた。

やがて体格のいい男が少女を背負って何処かへと去って行った。
緊迫に包まれていた空気がほんの僅かに緩む。
遅ればせながら警官がやってきて、崩れた馬車の御者と思われる
男を起こして話を聞こうとしていた。

アイオニアは自分が買い物帰りだという事を思い出し、
慌てて小走りで帰った。



『鍵屋 クラスペディア』

そう書かれた看板の下の扉をアイオニアが開けた。
控えめだが上品な雰囲気のある店内には誰の姿もない。
柱時計の音が妙に大きく聞こえた。

「ただいま」
「おや。おかえりなさい、アニー」

帰宅を告げたアイオニアを店の奥から愛称で呼び出迎えたのは、
落ち着いた雰囲気の物腰柔らかな青年だった。
クリーム色の髪に深緑の目。右目にモノクルを掛けている。

「買出し、ありがとうございました。
 それと、裏口から入りなさいといつも言っているでしょう」
「おきゃく、どうせ、あまりこない」
「……それを言われると反論が出来ないんですけどね」

やや舌足らずで片言気味な発声で痛い所を付くアイオニア。
困り顔で青年――ミシェール・ブランは紙袋を受け取った。
食材や日用品が詰まった紙袋はずっしりしていて、
ブランは危うく落としそうになった。

「これはすみません。随分と重い物を運ばせてしまったようで」
「へいき」

確かにまだ幼い少女にはちょっと辛い重さだが、
アイオニアは強がりでも何でもなく本当に平気だった。
ブランは苦笑するとアイオニアの頭に手を置いた。

「いくら力持ちのアニーでも女性ですから、
 その細い腕に重い物を持たせる訳にはいきませんよ」
「……うりゅ」

くすぐったそうに笑って変な発音で返事をしたアイオニアから
手を離し、紙袋を持って奥の居住スペースに
戻ろうとするブランにアイオニアもとてとてと付いて歩く。
すると一番奥の部屋の扉が物憂げに開き、
隙間から整った顔立ちの美青年が出てきた。

「おい、そこのペドフィリア」
「別称の変更を要求します」
「おい、そこのロリコン」
「意味があまり変わっていないように思えるんですが?」
「じゃあ、ロリータ・コンプレックス」
「どの辺が『じゃあ』何ですか」

紙袋を、どん、と頭に容赦なく乗せられた青年は「いて!」と
声を上げてその場に崩れた。
それを見て何となくアイオニアはあの御者を思い出した。

「マッド。仕事は終わったんですか?」
「てめえが終わるまで出てくんなっつったんだろ。
 なにが『その細い腕に重い物を持たせる訳にはいきません』だ
 この格好付け」
「紳士と呼んでください」

マッドと呼ばれた美青年は涙でブランを睨み付けた。
だが次の瞬間、悲しみに暮れる顔でアイオニアに向き直り、
よよよ、とその小さな体にしがみついた。

「なあアニー、見ただろ今のブランの暴行。
 嗚呼、可哀想な俺。今ので一体何個の脳細胞が失われたか」
「まっど、かわいそう?」
「そうそう。可哀想なの超可哀想」
「まっど、かわいそう」
「アニー! お前なら分かってくれると信じてたよ!
 今日はこんな老け顔放って二人で飯でもグヘァっ」

どんどん調子に乗って行くマッドの頭に再び紙袋による
制裁が加えられた。
鈍い音を立ててマッドは床にへばり付いた。

「どっちがロリコンですか!」
「違う! 俺は全ての麗しき女性達を平等に愛しているんだ!」

本日三度目の制裁の音が響いた。

「おや、もうこんな時間ですか。
 アニー。店を閉めてきてくれますか?」
「まっどは?」
「放っておいて結構です」
「わかった」

可愛らしく敬礼してアイオニアが店の戸締りをしに、
ドレスの裾を翻す。
そんなアイオニアを見送ってからブランはぼそりと、
しかしマッドには聞こえるように言った。

「今日の夕食は酢の物にしましょう」
「す、すみませんでした……」

酸っぱい物嫌いのマッドには悪魔の宣告のように思えた。

   + + +

何もない空間に、黄色い花が咲いていた。
先端に小さな花が密集してボールの形を作っているという
変わった形で、少女はその花の名前を知らなかった。

最初は彼女の足元に一本だけ咲いていたその花は、
気が付くと遥か先まで黄色で埋め尽くすほどに咲き乱れていた。

行かなきゃ、と思った。

何処へ? と思った。

行かなきゃ。早く行かなきゃ。何処に?
――あの世に。

彼女は死んだ者が辿り着く場所に憧れていた。
生きている世界を捨てて、生きている事のしがらみがない世界へ
行こうと、行きたいとずっと思っていた。
でも、今「行かなきゃ」と思った場所は
そこではないと理性が告げる。

彼女が行こうと思ったのは。
行きたいと思ったのは。

――この黄色い花が咲いている場所。

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