第1話/奏 ~Maternal Melody 02

三日後。

アイオニアは『鍵屋・クラスペディア』の
店の前を箒で掃いていた。
今日は柔らかい日が降り注ぎ、銀色の髪を持ち上げる
風が心地良い。
思わず鼻歌でも歌ってしまいそうなのどかな午後。

「すみません」

そんなのどかさに突如、薄い氷のような声が刺さった。
アイオニアが感情表現のやや薄い紫色の目を声のした方へ
向けると、見覚えのある栗色の髪の少女が立っていた。
あちこちに絆創膏や包帯をしていて、
雰囲気には何処か冷気を帯びているように思える。
アイオニアの脳裏に馬車の衝突事故という
三日前の騒がしい光景が浮かび上がる。

「……ちぇるろ?」

思わず記憶の中にある名前を呟いた。
少女は一瞬だけ眉をひそめたあと、
檸檬に似た色の瞳をアイオニアから店の方へ向けた。

「ええ。あたしはチェルロ。
 あの天才バイオリニスト少女チェルロ・リネイリよ」
「ていさい、ばいおりにすとしょーじょ?」

チェルロと名乗った少女から出た言葉に首を傾げた。
その反応を見て、少女も首を傾げた。

「……貴方、あたしの事知ってるんじゃないの?」
「しってる。みっかまえに、ばしゃ、ぶつかった。
 おんな、おまえのこと『ちぇるろ』、よんでた」

チェルロは眉間の皺を深くした。
それが馬車と衝突した事故の事でなのか、明らかに
年下と思われる幼子から「お前」と呼ばれた事でなのか。
おそらくは両方だろう。

「ああ……あの時、現場にいたの。
 貴方が言ってるその女は多分、あたしのママの事ね」

檸檬色の瞳がアイオニアを頭のてっぺんから爪先まで
じっくりと観察し、次いで店の外装を見つめた。
『クラスペディア』は特に変わった外見をしているわけではない。
あえて特徴を花壇の黄色い花――そのまま店名でもある
クラスペディアという花が咲いている事ぐらいだ。

「ここは……鍵屋さん、なのよね?」
「そう」
「……あの、何て言えば分からないんだけど。
 えっと、あたし……」

少し迷ったような口調でチェルロが何か言おうとした所で
店の扉が開き、中から余所行きの服を着たマッドが出てきた。
オールドオレンジの髪は陽光を受けて輝き、
アッシュローズの目は角度によってその色が微妙に変わる。

「アニー。掃除はブランに任せちまえよ。
 箒なんて重たい物をそのか細い腕に握らせるとは何て奴――」

何処かで聞いた言葉と酷似した事を言いかけたマッドは、
チェルロを見た途端目を細めて唇の端をそっと持ち上げた。
元の顔が良いだけに、かなり強烈な力を持つ表情だった。
そして何処からともなく棘のない薔薇を一本。

「これはこれは。秋の実り色の髪をした天使がいると思ったら、
 王立音楽劇場アストラルの麗しき天使
 チェルロ・リネイリさんでは御座いませんか」
「えっ……ええ?」

突然の口説き文句にチェルロは目をまん丸にして驚いた。
心なしか、冷たかった顔に桃色が差している。
アイオニアは覚めた目でマッドの行動を見ていた。

「まっど。ちぇるろ、ちがう――」
「ああ、ちょっと待ってくれアニー。
 この、女性が恋という魅惑にして優艶な穴に落ちかけている
 瞬間が一番のイイ所なんだ」

マッドの不必要なまでに真剣な顔と声に
アイオニアは呆れたように溜息を吐いて、持っていた箒を
おもむろに構えて――マッドの後頭部を突いた。

「っで!? ま、また後頭部……!」
「まっど。ちぇるろ、『オド』のきゃく。
 とおりすがり、ちがう」

チェルロを口説いていた時とは別の真剣な顔で
マッドが自身の瞳を紫の目に振り向き見た。

「どうしたんですか。騒がしいですよ」

店の扉が開き、更に黄土色のスーツのブランが出てくる。

「ぶらん。おきゃく。『オド』の」

アイオニアが簡潔に伝えると、ブランは一瞬だけ驚いたような
顔をして、しかしすぐに柔らかな笑顔を乗せた。
マッドはわざとらしく咳払いをして
手に持ったままの薔薇をコートの裏にしまい、
背筋をしゃんと伸ばした。
そうすると驚くほどそういう仕草が似合う人物だ。
チェルロが呆気に囚われていると、
ブランが口を開いた。

「ようこそ。『鍵屋・クラスペディア』へ。
 ――どのような“鍵”をご所望で御座いますか?」





決して大きくない部屋を最大限に活用したインテリアは
控えめだが決して質素ではない。
柱時計が時間を刻む音が静かに響く店内に
爽やかなレモンティーの香りが、ふわりと広がった。
ん、とだけ言って運んできたアイオニアがティーカップを
チェルロの前に置く。

「あ、ありがとう」

チェルロは緊張で固まっていた。
そして緊張している自分に驚いていた。
もう何年も、緊張なんてしてなかった。
王立音楽劇場で演奏する時も、
凄く偉い人と会う時も、いつもチェルロは冷静さを
失わず、完璧な対応をしてきた。

それなのに、この店に入った途端。
否、この店を見付けた時に久しぶりに緊張した。

誰も知らない領域に入るような。
世の理に触れるような――

「私は当店の店長のミシェール・ブランと申します。
 ブランで通っておりますので、どうぞそちらでお呼び下さい」

胸に手を当て、軽く腰を折ってブランが自己紹介をする。

「そしてこちらが当店自慢の鍵職人――」
「マッド・ハッターです」
「あにーは、てーいんの、あにーです」

マッド、そして最後に手を上げちょこちょこ跳ねながら
アニーが自己紹介をする。

「あ。え、と。チェルロ・リネイリ……です」
「ええ。ご存知ですよ。百年に、否五百年に一度の
 音楽の天使と呼ばれる天才バイオリニスト、と」
「…………」

いつもならここで「はい」と自信満々に答えるのだが
マッドの言い方がいかにも気障なので言葉に詰まった。
ブランが目だけでマッドに釘を刺した。

「チェルロ様は当店の特別な“鍵”をお求めとは思いますが、
 まず、その鍵――『オド』についての
 ご説明をさせて頂きます」
「ちょ、ちょっと待って!」

つい大きな声が出た。

「あたし、何かこの店が目に入って気になったから
 近付いたっていうか……。
 その、悪いけどあたしはここの店の事は
 これっぽちも分からないし」
「“気になった”――それだけでいいんですよ」

え、と目を瞬かせる。
ブランは穏やかな笑顔のまま鍵の説明をした。
マッドはレモンティーを啜りながら、
アイオニアは紫の瞳にぼんやりと店内を映しながら。

「当店の『オド』は鍵です。
 しかし、普通の鍵では御座いません。
 『オド』は人、土地、動物、鍵穴の無い物、
 どんなモノでも開け閉めする言わば
 ――魔法の鍵、です」

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