第1話/奏 ~Maternal Melody 07

手前の特等席にブラン、マッド、アイオニアが座っている。
しかし周りの他の客は無く、職員がバタバタと走っている。
その中であって、黒い礼服姿の指揮者の棒が振られる。

「今日は貴族が来るから本番の特等席はあげられないけど、
 リハーサルの特等席なら大丈夫よ。
 お礼と言ってはなんだけど、聴いてほしいの」

チェルロの頼みでクラスペディアの面々は
特別にリハーサルのみ特等席に座る事が許された。

リハーサルは本番と同じようにやらなくてはいけない。
実質、彼らはこの王立レベルの演奏を独り占めならず
三人占め出来たのである。

「これでポップコーンがありゃなあ」
「映画館じゃないんですから……。
 汚さないで下さいよ。時には国王が座る席なんですから」

小声でこそこそと話す二人の前で
曲はバイオリンのソロに入っていく。
チェルロが席から立ち上がり、視線だけを三人に向けた。
そして、チェルロの手の動きから生まれる音色は
楽屋の時と同様、聴く者の聴覚を全部自分へ
奪い去るようなものだった。
指揮者も演奏者も、誰もが満足そうな笑みを浮かべていた。
一時間後の本番の成功を確信した笑み。

だが――

「違うわ!」

チェルロのソロの途中で突如割るような声が上がった。
広いホールの中に、しかし打ち付けるような
声の持ち主は入り口近くに立っていた、派手なドレスの
女性だった。
豊かな栗色の髪を揺らす彼女は、

「ちぇるろの、ははおや」

ホールにいる全員の訝しげな視線を一身に浴びながらも
全く躊躇する事無く女性――マーサ・リネイリは
舞台へ駆け寄った。

「違う。全然違う。貴方の病気は全然治ってないじゃないの!
 弾けてないわよ! そんなの、チェルロの旋律じゃないわ。
 今の貴方のそれは、ただの上手い人よ!」

あまりの事に信じられないという顔でその場にいた
全員が固まってしまう。
誰もが唖然としている内に
マーサは糾弾の矛先を目の前にいた三人に向ける。

「貴方達! よくもこんなのでチェルロの病気を治したなんて
 堂々と言ってくれたわね!
 この子に何をしたの! ふざけていないで
 早くチェルロに本当の、あの音色を出してあげてよ!!」
「え? え、いや、あの――」

掴み掛かろうかというほどの剣幕に
マッドとブランは言葉も出ず、ただ顔を見合わせる。
誰も止めるものがいない中、叫んだのは彼女の娘だった。

「いい加減にして!!」

マーサの先ほどの叫びを越えるその声には
強い怒りの色が滲んでいた。
チェルロはストラディバリウスを置くと
はしたなくも舞台を飛び降りて母親に歩み寄る。

「どうしてそんな事言うの! あたしは彼らのお陰で病気が
 治ってこんなにも自由に、前と同じように弾けてる!
 頭オカシイんじゃないの? そもそもママは
 音の良し悪しなんて分からない素人じゃない!
 彼らを悪く言わないで! バイオリンにまで口出ししないでよ!
 どうせお金にしか興味が無いくせに……!!」

とても母親に向けるものではない憎しみの詰まった
言葉に一瞬目を丸くして驚いていたマーサだが、
見る見る内に顔を真っ赤にして叫び返す。

「何を言っているの、どうして分からないの!
 チェルロの事を一番よく分かっているのは私よ!
 今の貴方のは、前のとは全く違う!
 前の貴方の音色は、もっと――」
「うるさいうるさい!!
 知ったかぶりなんてしないでよ気持ち悪い!
 もっと素直に喜んだら?
 金稼ぎ道具が戻ってきたんだから!」
「親に向って……!」
「親? 馬鹿な事言わないで。
 
 ――あんたなんか親じゃない!」

一切の躊躇が無く言い放たれた言葉を最後に
ホールが夜のように静まり返る。
それを破ったのは、マーサの泣き声だった。
わあっ、と堰を切ったように泣き出した母親を
チェルロは冷たく見下す。

「最ッ低……!」

真っ赤なドレスが翻る。
誰かがあっと言う声を上げた時にはチェルロはドアをくぐり
ホールを出て行ってしまっていた。

「チェルロ!」
「チェルロさん!」

マッドとブランがその背中を追いかけて席を立つ。
残ったのは舞台の上の固まったままの演奏者と指揮者。
そして泣きじゃくるマーサとアイオニアだった。

黄緑色のドレスが静かに席を立つ。
銀色の髪を揺らしてアイオニアが
マーサの目の前にしゃがみ込む。
虚ろな紫の瞳を真っ直ぐにマーサへ向けて、

「あにー、わかる。
 あにーは、ひとのこころ、びんかん。
 だから、わかる。わかった。
 おまえ、だれよりも、ちぇるろが、だいじ、おもってる」



マッドと別れ、真っ赤なドレスの少女を捜していた
ブランは劇場の中庭でその姿を見付けた。
うずくまる彼女の姿はまるで岩に赤いペンキをかけたようだった。

「チェルロさん」

中庭の中央にある木。
その根本に隠れるように膝を抱えた少女の名を呼ぶ。
ブランがその傍まで歩み寄ったが反応は無い。
どうしようかと悩み、風が草木を揺らす音だけが耳をくすぐる。
しばらく経った後、彼女は小さな声で呟いた。

「……あたしさ、うっかりで生まれてきたんだ」

突然の告白にブランは目を見開きチェルロを見る。
その顔には翳りができていて、
レモン色の目には諦観のようなものが浮かんでいた。

「あいつは金持ちで顔も良いから、夜の遊びが酷くてさ。
 毎晩毎晩男とベッドで遊んでいたから、腹に宿った子が
 誰の子か分からないんだ。
 それで遊びがバレて、あたしを生んでから家を追い出されて、
 それからずっと娼婦やってた。満更でもなさそうだったけど」

小さく開けられた唇からポロリポロリと音が零れる。
かける言葉を見付けられないブランはそのまま聞くしかなかった。

「ある日。客に“食い逃げ”されて、本当に飢え死にしかけた
 事があって……その時、言われたの。

 私がうっかりしなかったらこんな思いを知らなくてすんだのに。

 ……無責任だよね。自分のくだらないミスで生んどいてさ。
 まあ確かに、あたしがいなかったらあいつは
 飢えも寒さも知らずに呑気に暮らせたんだけどね」

ブランは自分の口下手を恨んだ。
言い慣れた事務的な言葉しか吐けない自分が。

「それから、あたしは偶々見ていたちんどん屋の陽気な男に
 バイオリンを弾かせてって頼んで、それで弾いて……。
 それからね。あいつの態度が急変してやたら気遣ってくれる
 ようになったのは。
 折角豊かな生活に戻れたんだから、当然だけどね」

チェルロが少しだけ顔を上げた。
その横顔は、恐ろしく空虚だった。

「あたし、愛されてないんだ」
「チェルロさん――」

ブランは口に自信が無い。
たっぷり躊躇って、額に冷や汗をかいて、迷って、言葉を選んで。
それでも、伝えたかった。

「それは、ちょっと――違うんじゃないですか?」


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