第1話/奏 ~Maternal Melody 08

マッドは劇場内を小走りでめちゃくちゃに進みながら
頭の中を怒涛の勢いで回転させた。

あの母親は違うと言った。
前のチェルロの演奏と、今のチェルロの演奏は全然違うと。
あの人はこれまで誰より近くで彼女の音を聴いてきたはずだ。
だったら、真実を持っているのはあの母親だ。

まだ終わっていない。
俺達の仕事はまだ終ってない。
足りないのはなんだ?

「――っとぉ!」

突然曲がろうとしていた角から小さな影が飛び出して、
あやうくぶつかりそうになる。
目の前に舞う銀色の髪は慣れ親しんだものだった。

「アニー」
「……まっど、みつけた。
 あにー……はしった。つかれ、た……」

荒い息の中に混じるような切れ切れの拙い言葉は
聞き取るのが大変だった。
マッドは視線を合わせるように屈んで、

「どうした? 何か分かったのか?」
「……ちぇるろのははおや、たりない、いってた。
 たりない。だから、ちぇるろ、ばいおりんが、だめって」

少しだけ焦燥の浮かんだ紫と目が合う。

「たぶん、ちぇるろには――」



マッドが少し羨ましいと思う。
性格はあれだが、口下手な奴に女性は落とせない。
口元が引きつるのを感じながらそれでも必死に喉を震わせた。

「お母様は……チェルロさんの微妙な音の違いを、
 感じ取ってああ仰っていたのだと、思います。
 それは、普段から傍にいて思いやっていないとできない事です」

チェルロの目が不機嫌に揺らぐ。
睨むようにブランを見遣り、口元を埋めていた腕から上げる。

「そんな事……」
「私は今まで『オド』の仕事を何度もこなしてきました。
 『オド』は何かの記憶や心に関わるものです。
 だから、私は、人の本当の気持ちを察する事に、
 人より優れている自信があります」

塔婆に話しかけるようにゆっくりと喋るブランの言葉に
チェルロは押し黙る。

「ただの推測ですが……、
 もしかして……貴方にはまだ鍵穴が隠れているのではないかと
 思います。私達が、見落としている、鍵穴が」
「……あいつは、あたしの事を金稼ぎ道具としか見ていない。
 音楽に関してはあいつは素人だし、今まで口出しなんか――」
「貴方の技術は素人玄人を越えたものがあります。
 素人だから、というわけではなく母親として、
 貴方の音に何か感じるものがあったのでは?」
「そんわけない! あいつは母親なんかじゃ――!」

叫びかけた言葉を飲み込んでチェルロが黙り込む。
ブランに当たっているだけだと気付いたのだろう。
こんな事を言っても無意味だと、押し黙る。

気まずい沈黙が二人の間に流れる。
それを破ったのは第三者の声だった。

「ブランの言ってる事はアタリだな」

吹き抜ける風がくすんだ橙と銀色の髪を揺らす。
マッドは指先でさきほどの『オド』を弄びながら、
木の根元の二人まで歩み寄る。
草を踏む音が密やかに鳴った。

「と……言いますと?」
「チェルロにはまだ鍵穴があるって事さ。
 それは正真正銘――頭が忘れてしまったものだ」

マッドは鍵の先をチェルロの額に向けて、

   ――かちゃり

   + + +

   ――とくん

例えるなら、ぬるま湯に浸っているような。
上も下も右も左もない場所。
水の中でぷかぷかと浮かんでいた。 そこは静かに脈打って、何故か懐かしく安心できる場所だった。
とくん、と途絶える事無く脈打つ音には聞き覚えがある。
思わず身を委ねて、眠りたくなる音。
その音が誰のものか、知っていた。

それは誰もが知っている音。
生まれる前から聞いていた、母の音。

   + + +

稀に母親のお腹にいる時の記憶を持っている人がいる。
チェルロ・リネイリもその一人だ。
彼女は羊水の中で浮かんでいた頃の記憶があり、
そこの中で鳴り響く母の鼓動の音を覚えていた。
誰のが生まれる前から聞いていた原始ともいえるその音こそ
チェルロの音楽の起源だった。

バイオリンを弾く時、いつも無意識的に
その鼓動をイメージしていた。
彼女はその鼓動を聞いている時と
同じような気持ちになれる音色を目指して弾いていた。
確かな技術と、誰もが安らかな気持ちを得られる
音色を弾くからこそ、誰も彼もがチェルロの音色を賞賛した。
母の鼓動こそがチェルロの音楽の礎である。

その欠落に気付いたのはマーサ一人だけであった。





「話はそこの鍵屋の方々に聞いたわ。
 私は……私はね、自分のせいでチェルロに寒い思いを
 させている自分が嫌だったのよ。
 私がもっとしっかりしていれば、チェルロはこんな思いを
 知らなくて済んだのにって。
 だからチェルロの才能を売り込んで、将来貴方が、
 そして貴方の子供が苦労しないように……していたの。
 ……でも、やりすぎたみたいね。誤解をするくらい」

木の根元。
そこでチェルロはマーサに膝枕をされていた。
普通の人間であるチェルロが脳に直接、
魔力を打ち込まれるのは逆に体力を奪われる行為だ。
疲労で倒れた彼女が、目を覚まして最初に見たのは
今にも泣きそうな顔で自分を除く母親だった。
周りには鍵屋の三人がいたが、不思議と恥ずかしさはなかった。

「……ママ」

呟かれたチェルロの言葉に、マーサは目を開く。
そんな風に呼ばれたのは久しぶりだったのだ。

「ごめん。ごめんね、ママ。
 今のあたしがあるのは、ママのおかげなの」

そして彼女の口から、『オド』によって思い出した事を
ぽつりぽつりと語りだした。

「あたしは……いつもイメージしてたその鼓動が
 ママのものだって気付いていなかった……」

チェルロの頬に透明な雫が綺麗に伝う。
もぞもぞと起き上がり、娘は母親を抱きしめて胸に顔を埋めた。
まるで甘える幼子のように。
娘の行動に一番驚いたのは母親で、
しばらく目を見開いていたが次第にその目に涙が浮かび
チェルロを抱きしめた。

「……ねえ、ママ。知ってる?」

胸に耳を当てるチェルロが囁く。

「ママの鼓動って、泣きたいくらい優しいのよ」

   + + +

鍵屋・クラスペディア。
遅めの夕食を食べ終わり、寛いでいた所で
アイオニアがブランに抱き付いて心臓の辺りに耳を押し付けた。
突然の行動に男二人が固まる。
空気が読めないのか読まないのか、あえて無視しているのか
アイオニアはしばらくそのままで耳を澄ましていた。

「あ、あああ、あの……アニー?」
「しんぞうのおと。きこえる」
「そ、そりゃそうですよ。人間ですから」
「にんげんには、やさしいおと、なってる。
 あにーには、ない。すこし、うらやましい」

その言葉と紫の目に浮かんだ翳りに、
二人は声には出さずにあっと思った。
少しだけ微妙な沈黙が降りたが、
これまた突然にマッドがアイオニアを抱き上げた。

「ふわっ」

驚きの声なのか、そんな声を上げて無表情な顔で目を丸くする。
マッドはそのままの勢いでアイオニアを抱きしめて
その膨らみのない胸に耳を当てた。

「まっど……?」
「確かにアニーには心音はねえよ。
 ――“お人形さん”なんだし、それは当然だ。
 でもな、アニーは俺達の心音を聞いてそれを
 良いなって思う心がある。
 アニーの胸に心臓は無いけど、代わりにでっかい心が
 詰まってるんだよ」
「ほんとう?」
「ああ、本当さ。俺には分かるよ」

まるで少年のような笑顔を浮かべて精一杯、愛情が
伝わるようにアイオニアを抱きしめる。

「……マッド」

今度はブランが声をかける。

「傍から見れば――セクハラですよ」
「どーしてそうやってムードをぶち壊すのお前ッ!?」

アイオニアを抱き直し、
マッドはブランと言い争いを始めてしまう。
そんな楽しい二人を見て
アイオニアは小さく、本当に小さく笑う。
そして足先から力が抜けるような感覚を覚え――

マッドに抱かれたまま人形のように眠りに付いた。


第1話:終


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