第3話/継 ~Remoto Ambition 05

マッドが部屋に入って来た時から予想はしていたのかもしれない。
彼女の目には驚きはなく、石になってしまいそうなほど
冷酷な光が射殺すように向けられる。
長年の鬱屈が積もった重い視線はまだ二十と少ししか
生きていない青二才には耐え難いが、
歯を食いしばって顎に力を込めて受け止めた。
しばらく無言の睨み合いが続いた。
先に逸らしたのはアージアの方だったが
それは気まずさからではなく、価値を見出せずに
興味を失ったかのようであった。
屈辱的な視線の逸らされ方だったが、
今にも膝を折ってしまいたかったマッドはつい安堵してしまう。

そして自分が目の前の老婆の迫力に気圧されて
まだ何も言っていない事に気付いて、足の位置を変えて
踏ん張るように踏みしめる。知らず握り拳が作られていた。

「俺がここに来たのはその子の修理だけじゃない。
 アンタに俺がマッド・ハッターを受け継いだ事、
 認めてもらおうと思って、来たんだ」

何も言ってくれない事さえ覚悟していたが
アージアはすぐに応えた。

「報告ならまだ分かる。だけど、認めてもらうとは
 どういう事だい?
 遠縁でしかないあたしが認めないと騒いだ所で
 何の意味もないだろう」

アージアはマッドの「遠縁」であるが、
その言葉で全て片付けられて具体的にどれ程遠い親戚なのかは
マッドは知らない。
ただ彼女の血がどんどんマッドの家……本家から遠ざかっている
家系であるのは知っていた。
そのような人間が本家に何を言った所で反映される事は、確かにない。
マッドは名前を受け継いだが、当主ではないのだ。

ここを訪問した時のマッドに言った言葉を思い出せば
驚くほど大人しいものになっているが、
それでも彼女が認めたわけでも許したわけでもない。

「あたしは嫌だけれど、本家がいいと言えば
 あたしなんかがどれだけムキになったって意味がない。
 アンタが堂々と名乗っているのも、そのコートを持っているのも
 本当に気に食わないが……いい加減我を貫くのも疲れる歳なんだ」

背を向けて「だから」と磨り減った声で、

「もう忘れちまいなよ、アンタもあたしも」

その言葉を聞いて、マッドは悟った。
マッドはアージアの件に関しては忘れたいと思っていたし、
出来れば一生係わり合いにはなりたくないものだった。
それは、アージアも同じだったのだ。

小柄で背骨が曲がっている彼女は今座っているので
目線がとても低い位置にある。
昔は、とても大きくて越えられないものに見えていた。
今の彼女は細くて矮小で、
話をはぐらかそうという意図が見え見えだった。

「……婆さんはその内思い出す事も出来なくなるんだから
 いいかもしんねえけど、俺はこの先何十年これを
 未消化のままやっていかなくりゃいけねえんだよ」
「十年、三十年経てば忘れるさ」
「勝手な事言うなよ。忘れるわけないだろ、あんな事。
 あんたは――」
「お黙り」

強い声ではなかったのに、頬を叩かれたかのような
鋭くも重い含みに続きが言えなかった。

冷たくこちらを見る目が幼い頃のトラウマを
記憶の倉庫から引きずり出す。
嫌な汗が額や背中を伝い、自分の周りの空気が
熱を奪われていったような錯覚を覚えた。
殴られた後のように頭の中が揺れて気持ち悪い。

思い出したくない。

「思い出したくないんだ」

アージアの声。

「アンタの事も、あの人の事も」

めいっぱい詰められた本棚が壁のような部屋で
小さな老婆の声が溶けるように響いた。

「先代は素晴らしかったね。
 クロエも頑張りな」

断絶の言葉だった。
それで終わらせて欲しいという切実さは感じ取れたが、
だからといって終わらせられるほどマッドの中で
彼女の事については軽くない。
自分だって忘れたかった事を、自分で自分の古傷を
抉るような事までしておいてここで引き下がれない。

「おい、ババア、終わらせるなよ。
 ここまで来たんだ。俺が納得するまで話を聞かせてもらうぜ」
「……何をすれば納得するって言うんだい。
 認めて欲しいって、一体何を見てあたしはアンタを
 認めればいいんだ?」
「アンタはあの時、俺が跡継ぎだなんて認めないと言った。
 逆に訊くが、アンタは何で俺を跡継ぎだと認めなかったんだ」

ひゅっ、とアージアの乾いた唇が細く息を吸う音が聞こえた。
背を向けられているので顔は見えないが、
一瞬動揺を露わにしたのは確かだ。

昔。マッドはアージアに認めないと言われた。
お前がマッド・ハッターの跡継ぎだなんて認めない、と。

才能豊かな子供を妬んで言った言葉だと周囲は思っていたようだが、
当の本人――当時のクロエは何かが違うと思っていた。
認めないと言われた時の、目。
自分ではない、自分を通した何かを憎んでいるように感じていた。
ずっと魚の骨のように引っ掛かっていた。

「……それは」

かすれ声。

「それは、明日。
 今はこの子の修理をする」

笑えるぐらい苦し紛れの声だった。
先ほどまでは積み重ねた年月の重みが絶望的な差を見せたのに、
今はその長い歳を重ねた体が弱く縮んでそのまま消えそうに思えた。
非常に不安定なアージアの精神。
杖を掴むようにアニーの銀糸の髪を掴んだ手が
震えていた。

ここでアニーの修理の為に、というのは逃げだろうか。
今さっき格好いい感じの事を言った自分が格好悪くなるのは
分かっていた。
明日彼女が話してくれるとは限らないが、

「ウチの看板娘、大事に扱ってくれ」

色々と限界が近かった。
抉り合いは、想像以上に痛い。

せめてと思い軽やかな足取りでこの部屋から出てやろうと
思ったら、ドアを開けた瞬間に立ち聞きしていたらしい
ブランと目が合った。

+ + +

本棚の陰に隠した椅子に座らせた大きな人形に
アージアはもたれかかるようにしていた。
マッドが部屋を出てから心臓が不規則に乱れ、
苦しいという事しか頭に思い浮かばず、
そして気付いたらここにいた。
埃除けの薄布を外し、その人形を露わにする。
くすんだ橙色の髪をした成人男性ほどの人形が見下ろしていた。
どことなくマッドに似ているその人形は、
しかしマッドより老成された印象を受ける。

先代のマッド・ハッターを模写するつもりで作った人形だった。

これを完成させる為に費やした長い年月を思い出し、
慈しむように橙の髪を梳いた。
他の者が見たら、その完成度の高さに逆に気味の悪さを
覚えるだろう人形はアージアが自分自身の為に作ったものだった。

アージアにとって、彼は特別な存在だった。
才能と呼ぶにもおこがましい、『マッド・ハッター』という
存在になる為だけに生まれて来たような魔法使いは
嫉妬以上の憧れと尊敬の対象だった。

だから、その人の実子であるクロエを――今のマッドを
もっと可愛がるべきなのに。
それがどうしても――

「出来ない……」

筋肉の付き方さえ完璧に真似た人形。
そっと目蓋を開けば、淡い赤の目がこちらを見てくれる。
硝子に年老いた自分の姿が映ったのを見て、
思わず身を引いた。自分が醜いと思った。
歳に合わない恋焦がれるような溜息を付いて、部屋の中央の
台座を見遣る。

自分の最高傑作であるこの先代マッド・ハッターよりも
素晴らしい出来栄えである自律人形の少女。
かつて追い求めた夢の存在。

――自律人形を作ったら、
褒めてくれるかもしれないと思っていた。

今やらなければならない仕事を思い出し、台座の前に戻る。
道具を握り締め、最高の人形を前に震えが来るのは
歳のせいではない。人形師としての性だろう。

この子の修理が終わったら。
自分は、ちゃんと遠い日のあの醜い気持ちを
あの子に告白できるだろうか。


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