宮森藤編 1/3

余った画用紙と黒鉛筆。
それが唯一の遊び道具。

テレビの教育チャンネルを見ていた幼い俺に、
珍しく地下のアトリエから出て来た父親が突然
その二つを与えて来た。
無言で差し出す父親に「くれるの?」と言い、
父親は「あげるよ」とだけ答えてまた地下に潜って行った。

それから俺は画用紙に黒鉛筆で絵を描くようになった。
まだ文字を描ける歳じゃなかった幼い俺は
無計画に無秩序に無差別に描きまくった。
紙と鉛筆が無くなれば地下に行って無言で父親に催促した。
父親も無言で画用紙と鉛筆の在り処を指で示した。

それが、俺達の唯一のやり取り。



『……あ、藤。……今、電話いい?』

蝉の声に負けてしまいそうなほど小さくて遠慮がちな声。
桜の声はいつだってこうだ。遠慮するような間柄でなくとも
悪い可能性ばかり考えて怯えている。
そんな彼女が――俺の桜が電話をして来たというのは
割と驚いていた。
桜なら「邪魔したら悪い」と電話は絶対にしなさそうだが。

「ああ。桜なら電話くらい、いつでもいいけど。
 ……でも通話してくるなんて珍しい」
『……うん。練習、しようと思って』
「練習?」
『……明日から二学期だから』
「成程。人と話す練習か」
『……うん、そう。……ごめんなさい』

誰も何も責めてないのにすぐ謝るのは彼女の悪い癖。

『……蝉の声がするね。また、いつもの放浪癖?』
「ああ」

返事をしつつ顔を上げて、八月三十一日の青空を見た。
俺がいるのは来るまで名前を聞いた事もなかった
小さな田舎のローカル線の駅だ。
トタン屋根と古びたベンチ、小さな駅員室、
ICカード未対応の改札。
古い匂いが濃いこの駅でスマートフォンを耳に当てている俺は
誰かが見たら少し浮いて見えるのかもしれない。

俺には放浪癖がある。
旅が好きというつもりではないが、二ヶ月に一回は
何となく電車を適当に乗り継いで知らない町に行く。
日帰りの時もあれば、二泊三日する時もある。
今回も俺の住む町から二時間以上かけて
ローカル線の終点までやって来ていた。
観光地という訳でもなく、泊まる場所があるかさえ怪しい、
山に挟まれ、畑が広がり、噎せ返るくらい緑に包まれた村。

どうして一人旅したくなるのか、
それは俺にも分からない。

『……どうして、藤は一人旅に出るんだろうね?』

その理由が俺にも分かってない事を知っている問いかけ。

「さあ……衝動的に」
『……知らない場所に、一人で行くのは……楽しい?』
「分からない。でも嫌じゃない」
『……宛ての無い場所に、一人で行くっていうのは
 勇気がいる……と、思うよ』
「そうか?」
『……少なくとも、私はそんな勇気、ない……』

謙遜ではなく、心の底から自信がないという声。
ベッドの上で小さく丸くなって
俺と一生懸命に話そうとしている桜の姿が容易に想像出来た。

地面を焼く日差しから逃げるようにトタン屋根の陰に入った。

「なら俺も一緒について行くけど」
『……え?』
「それとも俺の旅について来る?」
『……い、いいよ。無理しないで。
 一人になりたい時に……邪魔、出来ないよ』
「俺は桜を邪魔だと思わないし、
 一人旅より桜が好きだけど」
『………………』

息を呑む音が聞こえた。
数秒後。

『……ありがとう。ごめんね』

謝る必要はないのに。
指摘をしても治らない彼女の癖。

その時、遠くから電車の音が聞こえた。
一両編成のレトロな車両がホームへ入って来る。

「ごめん、桜。電車が来た」
『……帰って来るんだよね。こっちには何時に着きそう?』
「二時間半後だから……五時くらい」
『……分かった。急に電話して、ごめんなさい』
「別に構わない」
『……藤』
「うん?」
『……私も、藤……が、好き……』

蚊の羽音にさえ負けてしまいそうな声。
それでも、俺にはしっかりと聞こえた。
夏の青空に桜の顔を思い浮かべながら、

「ああ」

終点から終点まで、俺以外に乗客はなかった。



十八時になってようやく空に橙が覆うようになった。
リュックが当たる背中の汗の不快感に身動ぎしながら
俺は俺の家のある街に帰って来た。

東京、池袋駅。
この時間帯は池袋から去る者、夜の街へ向かう者で
ごった返していた。
東口から出て大きな交差点が見える。
そこに桜がいた。
小さな体を更に小さくして、自分がいる事を悟られないように
するかのように出入り口脇に桜が立っていた。
桜の耳には、細い体に似合わない大きくてゴツい
ヘッドフォンが掛かっている。

「桜」

肩をポンと叩くと、大袈裟なくらい桜の肩が跳ねた。
知らない人に話しかけられる恐怖がありありと浮かんだ顔で
振り返り――俺の顔を見た途端、緩んだ。

「……藤」
「うん」

新学期に備えて美容院に行ったのだろうか、
髪の毛が少しさっぱりしていて整えられている。
慌てて外されたヘッドフォンを細い首にかけると
益々彼女には不釣り合いなものに見える。
今年の夏は日差しが強烈だったが桜の肌は真っ白だ。

桜の変わった所と変わってない所をなんとなしに確認していると
ペタと冷えた手が頬に当たった。

「……ちょっと黒くなったね」
「ん。田舎の村を歩き回ったからな」
「……今回も旅のお話、聞かせて?」
「面白い事なんて何も起こらなかったけど……」

まあ桜と一緒に過ごせるなら何であれ歓迎だけど。

家に行くかそこらのカフェにでも入るか、と考えながら
ジュンク堂のある方面へゆっくり歩きだす。
歩きながら、桜が服の裾を、ちょん、と摘まんできた。

「……あ、藤……藤」
「うん?」
「……おかえり、なさい」

手を握り返しながら、桜は控え目に笑って言った。
桜は派手な目鼻立ちという訳ではなく、
桜の花というよりは楚々とした野菊のようだ。
俺にとって世界一可愛い女の子。
そんな桜の笑顔が嬉しくないはずがない。

俺は、桜のいる街に帰って来た。

「ただいま」

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