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九月一日。夏休みが終わった。
どちらかといえば、俺は学校が始まるのが嬉しい。
学校へ行けば必然、桜と会える。
別に学校がなくても、桜の家はそんなに遠くないから
会おうと思えばいつでも会える。
けれど約束をしなくても、どちらかが欠席しない限り
必ず会えるというのは互いに気負いのない事だ。

そういう訳で、俺はちょっと浮かれていた。
顔に出ないタイプだとよく言われるが、
俺は今結構わくわくしていたのだ。

だから普段なら擦れ違うだけの同級生に
自分から挨拶とかをしてみた。

「おはよう、草加(そうか)」
「…………!?」

待ち合わせ場所の都電の前。
小さな車両から吐き出されるように出て来た人並みの中に
知り合いを見付けた。
同級生――草加棗(なつめ)はかなり驚いた様子で
一歩後ろへ飛び退き、目を最大限に見開いていた。

「ばっ、なっ……」

口をぱくぱくさせる棗。
確かに背後から突然挨拶をしたが、
そこまで驚くような事なのだろうか?

「な、何の用だよ……」

学生鞄を盾にするように持ちながら
草加は疑わしげな口調で問いかける。

「いや、用という程でもないが」
「じゃあいちいち話しかけるなよっ」
「別に挨拶くらいいいだろう。お前、低血圧なのか?」
「……ッ、おはよう宮森! ……爆発しろ」

おはよう、の後に何か草加が小声で言ったが
よく聞き取れなかった。多分、独り言だろう。

草加棗――俺と同じ咲ヶ丘高校へ通い、同じ教室で学ぶ同級生。
茶髪の髪や着崩した制服やピアスを付けている辺り、
ちょっとした不良に見えなくもないが
彼がそうだという話は聞かない。
寧ろクラスの人気者で、彼の周りには常に学年性別様々な
生徒が集まっている、と三年になって初めて同じクラスになったが
草加についてはそういう印象だ。

俺が通学用の自転車を降りて草加の隣に経つと
怪訝な視線を送られた。

「……何」
「夏休み前と同じだろ。三年に入ってからは、
 一緒に登校してたじゃないか」
「人聞きの悪い事を言うな!
 お前とは偶々! 通学路が一緒で、
 偶々! 僕と仲木戸(なかきど)さんが話してる所へ
 お前が勝手に合流して来るだけで――」
「あ、桜」
「え!?」

都電脇の目立たない通路の先に小さな陰。
人相はまだ見えないが桜に違いないだろう。俺が間違えるはずない。
手を振ると、向こうも気付いたらしく耳元に手をかけた。
あれは恐らく、あの大きなヘッドフォンを外した仕草だ。
それから控え目に胸の前で手を振る。

「な、仲木戸さん! おはよー!」

俺の前方を遮るような形で草加が出て桜へ手を振る。
飼い主を見付けた犬みたいだ。
桜がこちらへ小走りでやってくる。
やっぱり、何も言わなくても必ず会える学校は便利だ。

「……藤、草加くん。おはよう」
「久しぶりだねー、仲木戸さん。
 僕はもう夏休みは塾に缶詰だったよ、仲木戸さんは?」
「……私はずっと本を読んでたよ」
「へえ、どんな本?」
「……異邦人の原文……とか」
「い、異邦人って……外国の小説だよね?」
「……フランス……」
「す、凄いね……」

桜はくすぐったそうに首を竦めた。
褒められて、反応に困っているらしい。

誰からともなく都電から離れるように歩き出すと、
桜は、すすす、といつものように俺の隣を陣取る。
その桜の隣に草加が並ぶのもいつも通りの光景。
草加が振って来る話題に何度か詰まりながらも
一生懸命に言葉を返す桜の頭のつむじを何となく眺める。
竦めたり傾げたり、首の動きに合わせてサラサラの髪が
一緒に動く。日焼けしていない真っ白な項が見え隠れする。

反応に困っているのに桜に話し続ける草加は
一見迷惑な奴に見えるかもしれないが、
周りが思っているほど桜自身は草加を迷惑がっていたりしない。
寧ろのその逆で、鈍い喋り方に根気良く付き合ってくれる
草加に桜は感謝している。
桜は草加の事をとても大事な友人だと思っているんだろう。
自己評価が低い彼女だから、恐らく自分が勝手に友情を感じている、
とか考えて口に出したりはしていないけど。

大通りを逸れて雑司ヶ谷へ向かう道。
南池袋に住んでいる桜にとってはわざわざ荒川線まで
待ち合わせに来るのは無駄な遠回りだが、
一緒に登校したいという彼女のたっての希望だった。

池袋の喧騒から少し外れた場所にある学校が見えて来た時、
後ろからバタバタという足音が近付いてきた。

「よっす一ヶ月ぶり。残暑厳しい中ほんと暑苦しいね、君ら」

声と共に俺の背中をバンと叩いたのは、
真っ直ぐ背中を流れる長い黒髪に赤縁眼鏡の同級生、
古林(こばやし)楓だった。
痛い、と小さく文句を呟いて叩かれた背中をさする。
暑苦しいと言えば古林の髪の毛こそ暑苦しそうなものだが。

「カノジョが隣のカレシそっちのけで他の男と
 くっちゃべってるのに余裕の態度ですな」
「……!」

その言葉に絶句したのは俺じゃなく桜の方だった。
慌てたように口の閉口を繰り返し、

「……ご、ごめんさない、藤。
 あ、あの別に、藤を放っていたとか……じゃ、なくて」
「古林。お前のせいで桜が傷付いた」
「だってさ、ワンちゃん」
「いや古林さんだから! 名差しだったから今!」

涼しい顔で草加に責任転嫁をする古林。
ついでに俺の自転車の籠に当然のように鞄を入れて来る。
遠慮がないというか、度胸があるというか。
夏休み前から変わってないな、古林。

ちなみに「ワンちゃん」というのは草加のあだ名らしい。
名付け親は古林で呼んでいるのも古林だけ。
理由を聞いた事はあるが「バカップルには教えません」と
よく分からない理由で教えてもらえなかった。

「可哀想に桜ちゃん。ほらそんな狼共の中にいないで
 こちらの花園へおいでやすぅ」
「えっ……古林さん、そっちのお方?」
「キショい想像しないでくれる?
 草加棗の夏休みは自室で女の子がキャッキャッウフフ
 しているアニメ三昧だったと言いふらすよ」
「言いふらすって何!? 僕そんな事してません!」
「……『ぴかいちっ!』は……
 なかなかの良作アニメ、だと、思う……」
「…………桜ちゃん見てたのアレ?」
「……凄く泣ける、よ……?」

校門を潜ってからも四人で自転車置き場へ行き、
草加が話し、桜が答え、それを古林が茶化す。
それが教室の前で別れるまで続いた。

階段を上っている途中、隣の桜の手の甲が俺の手に軽く触れたから
何となく握ると、桜は一瞬俺を見て
微かな笑い声を零しながらそっと握り返して来た。
桜の手の平は汗ばんでいた。
暑いからか、それとも緊張からか。
一ヶ月以上顔を合せなかったクラスメイトが沢山いる
教室に入る事は勇気がいる、と桜は言っていた。

一度も一緒に遊びに行った事のないような奴らに
何を遠慮する事があるのだろうかと俺は思うが、
何事も丁寧な桜は手に汗を滲ませて
たった今の笑顔を消して、不安そうに廊下を歩く。

――と、

「ほいじゃ、アタシらこっちだしー」
ガシィっ、と楓の腕が桜の肩に回った。
酔っ払いのような格好で強制的に桜を引きずっていく。
桜は突然のスキンシップに声が出ないほど驚いて
顔の筋肉を完全に停止させていた。

「じゃあまた昼休みで、桜」
「……はい、えっと、うん、また後でね……」

桜が教室に入るまで見守るつもりだったが、
途中古林が何事かを桜の耳元に囁いた。
すると桜は目を丸くした後、表情を柔らかくした。
古林が何を言ったのかは知らないが、
桜はだいぶ緊張の解けた顔で古林と教室へ入る。

あいつが桜のクラスメイトで良かったと胸をなで下ろしながら、
俺も教室へ入った。

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