3/3

九月の第二土曜日。
俺はまた何かに引っ張られるように街を出て
知らない場所に来ていた。
いつもの放浪癖。
九月前日まで行っていた田舎は山に囲まれた所だったが、
今回はどこまでも平坦な畑が続く村だった。
普段、狭い都会の中に住んでいるせいか
地平線を長く見ていると目眩がしてくる。
九月も中盤に差し掛かると言うのに太陽はまだ暑く、
焦げそうな土の上を歩きながら
とりあえず今日過ごす為の民宿を探していた。

商店の続く村のメインストリートらしき所で
ソーダ味のアイスキャンディをガリガリ齧りながら
歩いていると、道に水を打っていたお婆さんに話しかけられた。

「あらぁ、見ない子ねー。一人旅?」
「ええ、まあ」

撒かれた水はすぐに干上がっていく。

「うんうん。偶にいるのよね、
 ふらっと一人旅でこんな田舎に来るお客様が」
「お客様?」

見れば、お婆さんの背後の建物には「民宿」の文字があった。
なるほど。だから「お客様」か。

「今日の宿は決まってる? というかここらに泊まる所は
 ウチしかありゃしないけどね」
「ええ、混んでなければ是非」
「いやだわぁ。旦那と経営始めて三十年経つけど
 混んだ事なんかないわよぉ」

玄関先でノートに名前を記入し、部屋に案内されるまでの間、
桜は料理が上手いし掃除も出来るから
こういう仕事も案外出来るんじゃないかな、と考えていた。
中は宿というよりは丸っきり民家で他人の家に
上がっている気がしてくる。

「どうぞー、何もないけどねぇ」
「どうも」

案内された部屋は俺の住むワンルームと同じくらいだった。
座椅子、押し入れ、ブラウン管テレビ、壁には絵が飾って――

「――――あ」

一瞬、時間が止まったように思えた。
絵のタッチ、色遣い、題材、端のサイン。

全てが見覚えのあるものだった。

「おや、お兄ちゃん。もしかして絵とか好きな人かい?」

俺の視線に気付いたのか、お婆さんが嬉しそうに言う。
ああ。この人は好きなのか。この絵が、この絵を描いた奴が。

「有名な人でねぇ、一般的じゃないけど美術やるなら
 名前くらい聞いた事あるだろう。宮森富治夫(ふじお)
 旦那が絵画趣味でねぇ、私もいつかハマちゃって、
 今じゃ立派な宮森富治夫マニア。この絵、高かったんだよ~?」
「……そう、ですか」

俺が興味を失くしたと見たんだろう。お婆さんは「あら、失礼」と
素早く話を引っ込めて、夕食の時間を聞いて出て行った。

荷物を置いて、ベランダ際に畳マットが置いてあるのに気付き
それを敷いて何となく横たわる。
簾越しの日差しが部屋に細かい光の線をちらつかせる。

壁に飾られた絵に向かって、挨拶。

「久しぶり、父さん」



[ごめんなさい。今日、両親が家に来る日なので
 藤のお迎えが出来ません。
 明日の学校で旅先の話を聞かせて下さい。]

そんなメールが電車に揺られている最中に桜から届いた。
彼女の両親は国内外問わず出張が多く、小さい頃からずっと
南池袋の祖父母の元に預けられて育ったらしい。
時々会いに来る両親は、まるで親戚のようでちょっと苦手だと
前にポツリと零していたのを思い出した。
でも別に嫌いな訳ではないのだろうと思う。
彼女は仕事が出来て多くの人から頼られる両親を尊敬しているし、
両親が来るとなれば彼女の姉も家に来るはずだ。
今頃、久々に揃う家族の為に料理でも作っているのかもしれない。

「両親か……」

いつかと同じように俺以外に人のいない一両電車。
人がいないのをいい事に俺は鞄からノートと黒の鉛筆を取り出した。
何の変哲もない罫線無しの白紙、どこにでもある黒の鉛筆。
頭の中に思い描いた風景の、何処から描き始めるかを決めたら
後はただ白紙を黒くしていくだけだ。

それが幼い俺が唯一のめり込んだ事で、そして現在の習慣。

俺の父親は美術を学ぶ者なら誰でも知っている高名な画家、
母親は彼の妻でありプロデューサーでもあった。
親父は売れっ子だったから家は結構裕福だったし、
画家の息子というだけで同級生からは羨ましがられた事もあった。
当時の俺は、家に帰っても誰もいない自分の境遇をどうして他人が
羨むのかが全く理解出来なかったが。

正確に言えば、親父はいつも家にいた。けれど地下のアトリエから
滅多に出て来る事はなく、同じ屋根の下にいるのに一週間以上
顔も合わせないのも珍しい事じゃなかった。
母は母で親父の才能に陶酔し絵を売り込みに日本中を飛び回っていた。
家に一人でいるのが当たり前だったし、
小学校中学年辺りになる頃には大体の料理が作れた。
一人でご飯を食べるのが普通で、一人でテレビを見るのが普通で。

――そこに絵を描く事を与えたのは、親父だった。

突然よこしてきた紙と鉛筆。
今思うとせめて色鉛筆くらいにしておけよ、と考えたりもする。

親父から絵の描き方を教えてもらう事はなかった。
ただアトリエの中にいる時の彼のようにただ無心に紙に向かってみた。
寂しさからアトリエに行った事は数回あったが、
俺がいても親父は何も言わないし目の前の絵しか見ていない
真剣さが、無我夢中さが逆に怖くて結局その場から退散していた。

我が子に気付かないくらい、絵を描くって凄い事なのか。
それが分からなくて、
いつしか俺も紙へ無心に向かうようになっていった。
紙と鉛筆をせがむ時だけが親子のコミュニケーションだった。

ガタン、と
ローカル線電車が終点に着いた衝撃の揺れで集中から目が覚めた。
白紙のノートには見開き一杯にあの宿からの景色が広がっている。
絵のコンクールで入賞した事もある。
上手いと褒められた事は何度もある。
でも、

「……本当、何でそんなに夢中になれるんだか」

彼のようにあそこまで一途に絵を描いた事は、まだない。



池袋駅から吐き出された所で携帯が震えた。
ポケットから出すと同時に、前方に見知った人物が耳に携帯を
当てながら周りを目だけで見渡しているのが見えた。
携帯を元の場所に戻すと、人混みに上手く紛れながら大きく迂回し
誰かを探しているらしい人物の背後に回って、

「みっ!?」

携帯を当てていない方の耳を摘まむと奇妙な悲鳴を上げた。

「……み、耳、いま耳……っ」

ちょっとした悪戯のつもりが半べそ状態にまで追いこんでしまった。
そこまで驚かすつもりはなかったので逆に申し訳なくなる。

「ごめん。そんなに驚いた」
「……え。あ、藤……?」

彼女――桜は真っ青な顔で振り返し、突如耳を触ったのが
誰なのかを悟ると今度は顔がほの赤く染まった。

「……ひどい」
「ごめん」
「……心臓止まっちゃうかと、思った」
「正直、そこまで驚かすつもりはなかった」
「……ば……」
「ば?」
「……ばー……か」
「…………」
「……ごめん、ばかっていうの……嘘」
「いい。訂正しなくて」

否定はしない。

「で、どうした。今日、親来るんじゃなかったの」
「……あ、うん。それ、来週になっちゃった……」

どんどん声が小さくなり、俯いて言うから危うく聞き取れなく
なるところだった。
彼女の両親は忙しい。会えると言って、結局会えないなんて事は
今までも何回もあった。
それでも桜は会えると言っては喜び、会えないと言われる度に落ち込む。
余程楽しみにしていたんだろう。肩の落ち方から落胆ぶりが窺える。
でも桜は、すぐに顔を挙げて、

「……でも、今回も……藤のお迎えが出来た、から。いいの」

そう言って笑って見せたが、落胆の色は消えないままだった。
余計寂しそうな笑顔。
もっと本音とかぶつけてくれてもいいんだけど、
そしたら周りに心配かけないのが本音だとか言い出すんだろう。
滅多に会えない家族の、会えない時間も大切している桜。

「……おかえりなさい」

細い指が俺の小指を控え目に掴んだ。
その手を取って俺は桜の白い手を握る。

誰かにおかえりと言うのが好きな桜。

「お似合いだよな、俺たち」
「……え、えっ? 急に、そんなこと……」
「いや、俺はほら、放浪癖があるから」

誰かを待って人の流れの中にずっと立ち続けている桜の姿に
俺は声をかけずにはいられない。
いつしか俺がどこかへ出掛けた後は彼女が駅で待っているのが
定番になっていった。

「桜は好きだろ、待つの」
「……うん。……そうかもね。
 だって、藤はちゃんと……帰って来るから」

大きなヘッドフォンで周りの流れを断って
縮こまりながら改札を見続ける姿は哀れにも見える。
毎回毎回、迎えに来なくてもいいと言っても
桜は迎えに来るし、俺も桜に迎えられるのが何だかんだ好きだった。

不安そうな顔が、俺を見付けて明るい表情が咲いた時
帰って来たんだという事を実感できるから。

誰も迎えてくれない家で、必死に紙と鉛筆を消費して
せがみに行っていたあの頃には知らなかった
気持ちの落ち着き所。

「……藤におかえりって言うの、好きだよ」
「うん。俺も桜にそう言われるが好きだ」

傍から聞いたらきっと馬鹿みたいな会話をしながら
また俺たちは池袋を出て、雑司ヶ谷を目指してゆっくり歩く。

もしかしたら俺は桜の「おかえり」が聞きたくて
放浪癖がついたのかもしれない。
同じ屋根の下にいるのに顔も合わせない親父に
「おかえり」と言われた事は片手の指ほどもない。
会話なんてなかった。俺が紙と鉛筆を欲しがりに来ても
親父は黙って差しだしてくるだけだったし、
俺もただ何も言わずに受け取っていた。
それでもあの頃の俺には、その無言のやり取りでさえ
必死に絶やすまいとしていた大切なものだったのに。
今は、必死にならなくても大切な人が隣を歩いている。

「…………」

ふと視線を感じて横を見ると、桜が俺の顔を見つめていた。

「どうした? 何かついてる?」
「……ううん。藤……にやにやしてるから、珍しいなぁって」
「にやにや……してるか?」
「……嬉しそうだよ?」

何かあったの、と指を絡ませながら聞いてくる。
にやついてるのはあまり良い印象ではないとは思うが、
桜は俺が嬉しそうだと言った。それを告げる桜は
俺以上に嬉しそうな顔をしている。

「実を言うと、桜の大切さを再認識してた」
「……!?」

正直に告白した途端、桜は顔を真っ赤にして口をぱくつかせた。
顔を背けても隣にぴたりと寄り添っているから
耳まで茹で上がっているのが分かる。
相当恥ずかしかったのか足元がフラフラし始めたので
手を解いて腕を組ませると、益々フラフラし始めた。

「……ふ、藤は、たまに、凄い事言う……」
「そう? 正直に言っただけだけど」
「……恋愛小説みたい」
「俺たち恋人じゃないか」

だから腕組んで歩いたりしてるんだと思うのだが。

桜はまだ覚束ない足取りで寄り添うように半分体重を預けて来た。
その時、黒髪の下に真っ赤な笑顔が一瞬だけ見えた。

「……恋愛小説みたい……」

さっきのとは違う意味を込めた言葉を吐息と共に出た呟きは
夕暮れの空気の中に溶けて行った。

触れあった部分から体温が伝わって来る。
俺は欲しかったものを手に入れた贅沢者なんだろう。
おかえりと言ってもらえる事や、ただいまといえる事。
黒鉛筆だけの絵を、色鉛筆で染めて行くように
温かくなっていく。

「ただいま。桜」

帰りたいと思える誰かの隣が、俺にはある。

宮森藤編 fin.

→ 次へ