仲木戸桜編 1/3

中学三年生の春、お姉ちゃんが大学に通う為に家を出た。
本当は家を出てほしくなかったけれど、
あの大学に入る為にお姉ちゃんがどれだけ勉強してきたか、
長い努力の道のりを続けて来たか知っていたから「行かないで」とは言えなかった。
そんな我が侭、言ってはいけなかったから。

「桜。お婆ちゃんとお爺ちゃんの事、頼んだよ」

それに、お姉ちゃんがこう言ってくれたから。
お姉ちゃんがいなくなったら、頼りない私はもっと頼りない
小さな弱い生き物になってしまうと思って怖かったけれど、
お姉ちゃんはそんな私に「頼んだよ」という言葉を残していった。
そうだ。いつまでもお姉ちゃんを頼ってばかりの弱い子供のままでいちゃ駄目なんだ。
「頼んだよ」というその言葉を裏切らないように、お姉ちゃんの邪魔にならないように、
早く強い子にならなきゃ、と決意した。

   *

その日は少し風が強くて、雨のように薄ピンクの花が
空から降っていたのを覚えている。
咲ヶ丘高校、入学式――知らない人の洪水に、私は息を詰まらせていた。
忙しい両親の代わりに、
私の高校入学式に合わせて帰ってきてくれたお姉ちゃんは
「お化粧がまだ終わらないから先に行ってて!」と私を先に家から追い出した。
大学に入るまでは化粧っ気もなければ飾り気もない、
それでも十分魅力的なお姉ちゃんだったけれど
大学に入ってからは綺麗ににきびを誤魔化す方法や
一重まぶたを可愛らしく見せる方法を知ったらしく、
最近出掛ける時には時間がかかるようになった。

お化粧しなくてもお姉ちゃんは綺麗だよ、と言っても、曰く

「大人になったらお化粧はむしろマナーなの。
 桜はまだ早いけどねー」

と言われてしまった。
私と4つしか違わないのに。

「……お姉ちゃん、まだかな」

すぐ追いつくだろうと思ったのにマナーなお化粧とおめかしは
随分手間がかかるものらしく、
後ろを気にしながら歩いてきたけれど結局先に高校に着いてしまった。
門の前で待っていようと思ったけれど、在校生であろう人達に
流されるように校庭の掲示板前まで案内されてしまい、
人の流れに逆らえず掲示板の前で棒立ちの状態が十分くらい続いている。

他の新入生は友人と来ていたり親と来ていたり、
色んな表情を浮かべなら掲示板に張り出されたクラス表を見ている。
でも私はこの学校に友達はいない事は知っていたし、
どこのクラスになったとか言える人はまだ来ていなかった。

――どう、しよう……移動、した方がいいのかな。
   でもお姉ちゃん、まだ来てないし……。
   携帯電話……やっぱり、買ってもらえば良かったな……。

ちらちらと周りを伺っても、誰も私の事になんか気付かない。
他の子たちが笑いながら横を通り過ぎてどこかへ移動していく。
私はそれについていくべきか、ここでお姉ちゃんを待ち続けるべきか。
式の開始時間が迫る中、
こんな情けない姿お姉ちゃんに見せられない、と思った。
誰かがいてくれなきゃ自分で決めるどころか、
流される事さえもままならない、こんな弱い妹なんて
きっと呆れられてしまう。

――お姉ちゃん、早く来て。早く。

早く強い子に、お姉ちゃんに心配をかけないような子になると
決意したのに、迷いが出るとすぐ心の中でお姉ちゃんを呼んでしまう。

鐘が鳴る――式が始まる五分前になった。
誘導の在校生や新入生の波が大きくうねり、動けない私を
気にも留めず流れていく。
こんな些細な事で、と自分でも思うのに混乱が止まらない。
訳もなくうずくまりたいような衝動が生まれそうになる瞬間、

「――仲木戸先輩?」

聞きなれた名前で、声をかけられた。

「……え、あの……」

声をかけてきたのは男の子だった。
少し背の高い、大人びた子で、知らない人だった。
先輩、と呼ばれたような気がしたけど私は新入生だから
そんな筈はないし、彼も同じ真新しい制服を着た新入生だった。
いきなり同い年に見える人――それも男の子から「先輩」と呼ばれ、
訳が分からず返す言葉が咄嗟に出なかった。

「やっぱり。そんな訳ないか」

男の子は何故か一人で納得したような顔をする。
大人びているのに、どこかきょとんとしたような印象。

しかも何故か分からないけどこの人、凄く私を見てる。
自意識過剰とかそういうものでは決してなく、
誰がどう見ても私の顔をまじまじ見ている。
まさかこんな所で男の子に声をかけられると思っていなかったので、
混乱していた頭に急ブレーキがかかり全部が止まる。

このままじゃだめだ。話しかけられたら何か言わないと。
また――また、変な奴だと思われる。
焦れば焦るほど、言葉が頭を空回りする。
でも、男の子は黙っている私を気にしていない風に
自分から言葉を続けていった。

「悪い。ちょっと知り合いに似てたから、
 まさかと思って声をかけてみた」

今にして思うと、そんな軟派みたいなセリフを言われた事は
衝撃的だったけれど、混乱したり停止したりと忙しかった
私の頭はそんな意味に取り違える暇もなかった。

ただ、淡々としているのに決して冷たくはない声のトーンは
不思議と聞き取りやすくて、焦っていた私の心が
少し凪いだ気がした。

「……でもやっぱり似てるな。
 もしかして桃って名前の姉妹か親戚がいたりしないか?」

もしくは、聞きなれた名前が私を落ち着かせてくれたのか。
喉のひきつるような渇きと、手のじっとりとした湿り気を感じながら、

「……い……います。
 四つ上の、桃、っていう姉が……」

彼が最初に私に声をかけてから、何秒経っていたんだろうか。
やっと、それだけ返した。

「じゃあ、君が――」
「おーい、新入生はこっちー! 体育館ー!
 入学式が始まるから急いでねー!」

男の子が更に何か重ねようとした時、
誘導の在校生がこっちに向かって叫んだ。
気付けば掲示板の前にはほとんど人が残っておらず、
立ち尽くしたままの私と彼は結構目立っていた。

「あ、式始まるか」

先行く、と今までじっと見つめられていたのが嘘みたいに
あっさりと彼は私を追い越して行った。
まだ頭がまとまりきれずに声をかける事も、
振り返る事も出来なかった私の背中に最後に一言だけ、

「仲木戸――桃先輩によろしく」

私の姉への挨拶を落としていった。

「…………な……、
 なん、だったんだろ……今の人……」

たった今の会話――と呼べるかも分からないけれど、
交わした言葉を整理すると彼はお姉ちゃんの知り合いで、
私とお姉ちゃんを見間違えて「仲木戸先輩」と言ってきた、という事……だと思う。
確かに私とお姉ちゃんは昔から「よく似ている姉妹ね」と言われては来たけど、
私たちは雰囲気が全く違うから間違えられるなんてまずなかった。

「桜ー! 遅れてゴメンー! 式もう始まってる!?」

起こった事を整理している途中で、
ずっと待っていた声が聞こえた。
振り返れば校門の方から白いブラウスとスカートに紺のカーディガンという
いかにも保護者っぽい恰好でお姉ちゃんがこっちへ走ってくる所だった。
大学に入る前までは持ってすらいなかった高いヒールのついた
靴を履いていたけれど、慣れていなかったのか走り方は
見ていて少し危なっかしい。

「……ま、まだ始まって、ないから……大丈夫」
「よし、ギリ間に合ったわね。あーあ、もう
 やっぱ見え張らないでパンプスで来れば良かった」

安心した顔から大げさに後悔して溜息をつく苦い顔へ。
お姉ちゃんの表情はよく変わる。
顔は似ているかもしれないけど、
やっぱり私とお姉ちゃんは全然違う。

「って、やば! もう入学式始まるじゃん!
 急ごう桜っ、体育館ってあっち?」

さっきの彼の事をお姉ちゃんに聞こうと思ったけれど、
そんな暇はなく慌てて手を引かれる。

体育館へ駆け足で移動しながら、
そういえばさっきの男の子の
名前も聞いていない事に気付いた。

→ 次へ