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「おはよう」
「……おはよう、ござい、ます」

宮森くんは相変わらず、会う度に私に一声かけてきていた。
わざわざ会いに来る、という事はなくなったのだけれど
登校時や休み時間、放課後などすれ違うと声をかけ、
時にはそのままついてくる、というのがもはや定番になっていた。
もしかして彼はお姉ちゃんに会えるチャンスを窺っているのかと
思ったけれどあれ以来彼の方から特にお姉ちゃんの話題を
振ってくる事はなかった。

「仲木戸。音楽好きなのか」
「……は、はい。……え、な、なんで……」
「さっき、教室の前通った時イヤホンしてた」
「……あ、ああ……そ、そっか」

微妙なところで会話が終わっても、いつも通り彼は気にしている風はない。
これはもしや私の方から「今日はお姉ちゃんがいるから家においでよ」と
言った方がいいのかもしれない、とも考えたけれど
まだ知り合って一か月も経っていない男の子を家に呼ぶのは
どうなのかと考えている内に、大抵彼との時間は終わる。

――この人といる時間は長いようで短くて、よく分からない……。

宮森くんは不思議な人だけれど、人付き合いは悪くないらしく
他の男の子と話している様子は何度が見かけた。
そんな人がわざわざ私と一緒にいる時間を作る理由が分からない。
見えるのに触れられない、流れていく雲のような人。

「? どうかした?」
「――あっ、いえッ……ごめんなさい」

気付けば彼を睨みつけるような姿勢を取ってしまっていて、
慌てて体ごと彼から逸らせる。
今、学校で一番よく話す人は宮森くんだけれど、
ある意味彼が一番よく分からない人だった。

   *

新入生の雰囲気が学校の空気へ馴染んで来た頃の放課後、
美術室の前で宮森くんを見つけた。
上級生らしい人に導かれて彼は中へ入って行った。

――美術部……入るのかな。

彼は中学生の時、美術部で絵を描いていたというから
高校で美術部に行くのは不思議な事ではない。
電気をつけなくても大きな窓から十分な春の陽を取り込んだ
美術室は木彫りの彫刻やデッサン用に使うのだろう石膏で出来た像、
名画を模写した油絵、そして画材で溢れていた。
美術部はあまり人がいないのか、もしくは活動があまり活発ではないのか、
今しがた入って行った宮森くんと上級生以外には誰もいない。
顧問の先生の姿も見えなかった。

美術の授業がまだ始まっていなかった事もあって、
ついまじまじと美術室を眺めていると
ぼうと突っ立っていた私に上級生が気付いて目が合った。

「あ、君ももしかして美術部見学希望?」
「……え? あ……わ、私は」
「見学だけなら自由だから、どうぞ見てってね!」

決して強引ではないが、期待に満ちた目で誘われて
「違います」とは言えなくなってしまった。
ぱくぱく動いてしまう口を抑え、
仕方なく一礼してから美術室に足を入れる。
宮森くんは教室の奥に飾られた油絵を見ていて、
私には気付いていない。

「いやー、今日は二人も見学に来てくれるなんて嬉しいなぁ!
 ちょっと待っててね、今顧問探してくるから」
「えッ……あ、あの」
「そこら辺にある画材は遠慮なく使ってくれていいからね!」

爽やかに言い放つと、先輩は少しも足を止める事無く
美術室から出てすぐに廊下の先に消えてしまった。

「…………」

思わぬタイミングで、宮森くんと二人きりにされてしまった。
横目に見ると、宮森くんはまだ作品を見ていてこちらには気付いていない。

「…………」

声――を、かけた方がいいよね。
沸点の低い私の頭が早くも混乱しかけている。
宮森くんは、まだ私に気づかず部屋の隅に置かれていた
イーゼルとカンバスを手に取った。
淀みない動作でイーゼルを整え、
カンバスの上に藁半紙を置いた。
手慣れた動きに「本当に絵を描くんだな」と思っていると
ふいに彼がこちらを向いた。

「「――あ」」

短い声が重なった。

「……こ、こんにちは」

とにかく挨拶をしなきゃ――と焦り、
勢い余って頭まで下げてしまう。
同い年の人にする事じゃなかった。けど
宮森くんは予想外の事を漏らした。

「丁度良かった」
「……はい?」
「そこ座ってくれるか」
「あ、はいっ」

そこ、と指差されたのは背当てのない、絵の具がこびりついた
美術室らしい椅子。
なぜ急に座ってほしいのか、疑問を抱くよりも先に席に着く。

「ちょっとモデルになってもらっていいか」
「……モデル……ですか?」
「ああいうのは中学で描いたからな」

言いながら彼は目線だけでデッサン用の像を示す。
それよりも席に座れという指示と、
モデルになってほしいという要望を言う順番が逆のような気がする。
もしかして断り辛くする話術なのだろうか。
――返事を待たず、既に鉛筆と練消しを取り出している。

「デッサンで済ませる。数分動かないで」
「……は、はぁ」
「背筋伸ばして。あと、俺の方見て」

イーゼルと椅子を引きずり、自らの位置を調節しながら
宮森くんは意外なほどテキパキと指示を出してきた。

「顎上げて。いや、上向きじゃなくて。引いて」
「……こ、こうですか?」
「肩張ってる、息吐いて力抜いて」
「……ご、ごめんなさい。ええと……」
「なんだ。そんなに緊張しなくていいだろ」

むしろ男の子と向かい合って、
しかもモデルだなんて余計に緊張してしまう。
射抜くように向けられた視線に合わせる事がどうしても出来ず、
機嫌を悪くさせてしまっただろうかと思ってしまう。
とにかく体の強張りを取らなきゃ、と思った矢先、

「あ、やっぱり変える。
 この際だから緊張している人間を描いてみよう」
「……え、え?」
「そのままでいい」
「……は、はあ」

急に一八〇度変わった指示に戸惑うが、
結局その戸惑ったままでいいという事になった。
私もすぐパニックになるという自覚はあるけれど
今の彼の指示で戸惑わない人はいないと思う。

「そのまま」

彼は静かに、けれど素早く腕を動かし始めた。
紙の上を鉛筆が滑る音がとても小さく、
聞き逃さないように集中していると美術室、
それ以上――私と宮森くんの間のこの直径、それより外が
切り離されていくような錯覚に陥る。

春の陽気は徐々に沈み、日差しは徐々に飴色に変わっていく。
下手に首を動かせないから、時間がいくつ経ったのか分からない。
顧問の先生を探しに行った上級生は全く戻って来ないし、
一時間経ったようにも、まだ十分も経っていないように感じた。
時々こちらを見る宮森くんと目が合い、吃驚して
姿勢が変わってしまっただろうかと心配しても
描き始める前の指示の雪崩が嘘のように彼は何も言わない。

――いつも唐突で自分の言いたい事しか言わないというか……。

それでいて、黙っている時は本当に何も言わない。
他人から見れば、彼は所謂「空気を読まない」と
思われてしまうのだろうが、その無神経さが私には羨ましい。
言いたい時に言えなくて、言わなきゃ言えない時にも何も
言えないのが私だったから。
お姉ちゃんにも、言いたい事ははっきり言う強さがある。
そういう意味では、お姉ちゃんと宮森くんは
似ているというか共通する部分があると感じた。

「……出来た。もう動いていいよ」

ぱた、と手の動きを止め宮森くんは顔を上げる。
時計を見ると、時間はまだ三十分も経っていなかった。

「描けたけど、見る?」

そう言いつつ、また私が返事をする前に宮森くんは
イーゼルをこちらに向けた。白いカンバスに直接描かずに、
その上に置かれた藁半紙の上には、
一人ではなく何人もの私が描かれていた。
姿勢は同じだけれど、ほんのわずかな肩の高低や
眉の位置、目の動きでそれぞれ数分刻みの時間ごとの私を
切り取って行ったのだと分かる。
緊張気味の顔、時計の位置を気にしてる顔、
不安そうな顔等情けない顔ばっかりだったけれど、
その中に一人――微笑んだ顔の私がいた。

「……わ、私、笑ってましたか?」
「いや。笑ってはいなかったけど、笑ってるように見えた」
「…………?」
「それ最後に描いた奴だけど、なんか体の力が急に抜けて
 リラックスしているように見えたから……なんか考えてた?」
「……それは……」

言ってしまっていいのかと、少し迷う。
また喋る前に考え過ぎてしまったとハッとしたが、
宮森くんはただ私の方を見て、私が喋るのを待っていた。

「……姉と、宮森くんが
 ……少し似てるかも、と……思って」

宮森くんの目が丸くなった。
いつも表情の変わらない彼の、驚いた顔をその時初めて
見たかもしれない。

「俺と、先輩が? ……正反対だと思う」
「……パッと見は、そうかもしれないけど。
 でも……似てるところも、あります」

私にすごく構ってくるところとか、と言いかけて呑みこんだ。

「……絵、すごく、上手ですね」
「まあ、昔からずっと続けてるし」

そんな事は今まで散々言われて来たんだろうから、
返事も定型句を返すように淡泊だったけれど
けれど、紙の上の細かい鉛筆の滓を指先で払う仕草は優しげで、
それが絵の私が撫でられているように見えてしまって恥ずかしくなった。

「これ、いる?」

短く聞きながら、宮森くんは私の似顔絵を差し出した。

「……え、いいんですか?」
「俺が持ち帰るか、美術室に飾ってもらうのでもいいけど」
「……そ、それはちょっと……!」

ひったくるように似顔絵を受け取る。
自分の似顔絵を持っているのは恥ずかしいが、
それが誰かの部屋に飾られるなんてもっと恥ずかしい。

「じゃあ、あげる」
「……あ、ありがとうございます」
「? 俺が勝手に描いたものだから、気にしなくていい」

宮森くんがイーゼルを片付け始めたところで
ようやく顧問を連れて上級生が戻ってきた。
宮森くんが絵を描こうとしていると思ったらしい上級生は
捲し立てるように質問をぶつけていくが、
宮森くんは吹かれた柳のようにそれらをかわしながら
鞄を持って私の方まで歩いてくる。

「では、気が向いたらまた来ますので」
「……み、宮森くん?」
「帰ろうか、仲木戸」
「……あの、先輩たちの方……いいんですか?」
「今日は軽い見学のつもりだと言っといたから」

教室の出る間際に先輩と顧問にお辞儀をして、
そこからは宮森くんを追いかけるように美術室を後にした。
茶色くなってしまった桜の花びらが散らばる校庭を抜けて、
通りに出る。中途半端な時間だからか
学校の前には私達以外誰もいなかった。

「……美術部……入らないんですか?」
「どうかな。中学も美術部だったし、流石に飽きたかも」
「……それって……絵、やめてしまうんですか」
「止めるっていうか、もう止め時が分からないな」
「……?」
「あと部活よりもバイトして金貯めたい」

宮森くんがそんな俗物的な野望があったなんて少し意外だった
夕日が照らす彼の顔は浮いているというか、
少し悟ったような落ち着きがあったから。

「……お金……何に使うんですか?」
「18きっぷで旅行する」
「……旅行、ですか」
「昔から一人でふらふらする癖があるみたいでな。
 小学生の時、一人で栃木の知らない田舎まで行って
 母さんに凄く怒られた事もある」
「……す、すごい行動力ですね」

小さな宮森くんというのが想像できなかったけれど、
きっと今と同じような顔をして、しれっと遠くまで行ったんだろう。
なんて事を考えてたら、宮森くんがいつの間にか立ち止まって
私の顔をまじまじと見ていた。
あやうく背中にぶつかりそうになって、慌てて止まる。

「……ど、どうか……しました?」
「ちゃんと笑ったの初めて見たと思って」
「……え、誰が……?」
「仲木戸が」

咄嗟に自分の頬を押さえるも、鏡を見なければ
自分の表情なんて分からない。

「……私、笑ってましたか?」
「それ、さっきも聞いてたな」

「……え、ああ、そう、でしたっけ?」
私が笑っていたとしたら、さっき宮森くんが描いたような
穏やかな笑顔を浮かべていたんだろうか。

「それと、仲木戸がこんなに喋ってるのも初めてだな」
「……!?」

頬に当てていた手がカッと熱くなったのが分かった。

「? どうした」
「……あっ、い、いえ、なんでもっ
 なんでもないです……」

――今、確かに宮森くんも笑ってた。

一瞬で消えたけれど、確かに目撃してしまった。
笑われた訳でもないのに、何故か私が恥ずかしくなる。

「仲木戸。顔が赤い」
「……き、気のせいですっ。き、きっと、夕日で……」
「そうか?」

それ以上追及されなかった事に胸をなで下ろした。
自分でも理由がよく分からない逃げ出したい衝動を堪えながら、
彼の後ろをついて行く。
でも顔の熱が引くより早く、彼との分かれ道はすぐにやってきた。

「じゃあ、またな」

鬼子母神堂の方へ折れる道の前で別れた。

――あ。

いつもならここでやっと一人になれる事にほっとする筈なのに

――宮森くんが行っちゃう。

今日はなぜか歩いて遠のいていく、
宮森くんの夕日色の背中を見つめていた。
いつもなら、帰ってお夕飯の準備しないととか。
いつもなら、また明日彼に遭遇したらどうしようとか。
いつもなら、早く家に帰りたいと思うのに。
いつもなら、ここで軽やかになる筈の足が動かない。
――いや、違う。抑えていないと足が帰り道とは違う方向に
駆け出しそうだった。
骨が震えているようなむず痒さを覚えながら、
明治通りの奥に彼の背中が消えるまで動けないでいた。

あの背中が完全に視界から消えて、
呪縛が解けたように力が抜けた。

――な……何だったんだろう今の……。

覚束ない足取りで鬼子母神の方へ歩き出す、
何もされていないのにまた恥ずかしさで胸が破裂しそうになる。
胸の熱を取り出すように、不自然に大きな呼吸を繰り返しながら
頬を抓む。自分が家族以外の人に愛想笑いではなく、
自然に笑えていると自覚したのはいつぶりだろう。

――……お姉ちゃんとお話ししたい……。

よく分からない。けど、絵を描いてもらった事、
たくさん話が出来た事、そしてこの気持ちを誰かに話して
具体的な名前をつけてもらいたくなった。

仲木戸桜編 fin.

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