卒業式編

春、というにはまだ少し肌寒い日。
ただ冷たいだけでなく、緑の予感を含ませている気がして
こんな大都市の空気でも清々しく感じた。
いつもより少し早い朝、いつもと同じ待ち合わせ場所。
ヘッドフォンから流れる音楽に耳を傾けていても、
彼の自転車の音だけは真っ直ぐ聞こえた。

「おはよう。桜」
「……おはよ、藤」

三年間、そろそろ買い替える言いつつも使い続けた藤の自転車は、
カラカラと音を立てて今日も何とか回っていた。
藤が来たそのタイミングで東池袋四丁目に都電が留まる。
スーツ姿の人に交じって、見慣れた制服の子達も何人が降りてくる。
その中に、私の友達もいた。

「仲木戸さん! と、宮森。おはよう」
「……草加くん。おはよう」
「おはよう」

いつものように、三人で学校へ向かう途中
明治通りの所で背後から声が掛かってくる。

「はよー。今日は冷えるねぇ」

言いながら藤の確認も取らず、自転車の籠に
楓ちゃんが鞄を入れてくるのもいつも通り。

「女子はスカートな上にあんなに短くしてりゃ
 そら寒いだろうね」
「いやん、棗くんどこ見てんのよ」
「僕の発言全部セクハラに解釈するのやめろよッ」
「桜。寒かったら俺のマフラー貸すけど」
「……う、ううん。大丈夫」
「うわー、なんかあったかーい……
 カップルのアツアツ光線あったかーい……」

わいわい言いながらゆるい坂道を下って、
一緒に学校まで行く。これも、いつもの事。
――ただ、ひとつ違うのは。

「わ、ガッコーの屋上から垂れ幕下がってる。
 去年あんなん無かったよね」

楓ちゃんの指差す先には、恐らく下級生が頑張って描いたらしい
カラフルな垂れ幕が風に揺られて下がっていた。

文字は――『ご卒業おめでとうございます!』。

「こうハッキリ書かれると
 否応にも自覚させられるね……」

棗くんが、ぽつりと零した。
校門の前にも『咲が丘高等学校卒業式』という看板が置かれ、
私達在校生の他に、卒業生や保護者らしき人たちも
どんどん学校へ集まってきている。

最後の登校は、四人不思議と黙ったまま。
まだ咲かない桜の下を潜って行った。

   *

「正直さ、卒業式とかたるいよね」
「……か、楓ちゃん……」

あんまりにもズバッと言うものだから、
反応に困ってしまった。

「ええー、桜ちゃんは面倒くさいって思わないのー?
 証書受け取んのはいいけどさぁ、PTAとか教育委員会とか
 お前誰やねんって感じじゃん。眠くなるし」
「……ま、まあ……一種の通過儀礼……だし」
「儀礼的過ぎんのもどうかと思うのよー。
 とっとと卒業証明書受け取って帰りたいよー」

だるいー、と言いながら楓ちゃんは机の上に伸びる。
思った通りではあったけれど、やっぱり楓ちゃんは卒業式の日も
何も変わらずマイペースだった。
楓ちゃんの言う事も分からなくはないけれど、
でも、卒業式が必要な子もいるとは思う。

そわそわした空気。慣れ親しんだ場所の筈なのに、
初めてきた場所に座らされているかのような不思議な居心地の悪さ。
卒業式の空気は、入学式の日に似ている気がする。

「……卒業したって、実感、するのも……
 必要だと、思うよ」
「うーん、けじめとか区切りってやつ?」
「……たぶん。……そんな感じのもの」

教室内ではもう泣き出している子達もいた。
それを慰めたり、ちゃかすクラスメイトもみんな
今日はどこか遠い顔をしているような気がする。

「桜ちゃんはさぁ、卒業すんの寂しい?」

べたっと顔を机につけて俯いたまま、
くぐもった声で楓ちゃんは聞いてきた。
波のように静かに、けれども確かにざわめいている教室の中で
私にだけ聞こえる声だった。

「……しょ、正直ね……あんまり、寂しくない、かも」
「ふーん?」
「……で、でもねっ……寂しくないのが、寂しいって言うか……、
 あ、でも楓ちゃんが……毎日会えないの、寂しいけど」

言葉が混乱してきて、口が空回りし始める。
楓ちゃんはようやく頭を上げて、
うん、と静かに笑った。

「大丈夫。分かるよ」
「……ほ、本当に?」

先生まだ来ないよね、と楓ちゃんはポケットから
棒付きキャンディを取り出して食べ始めた。
こんな風にこそこそと何かを食べる楓ちゃんを毎日見れるのも
今日で最後。

「……楓ちゃんは、寂しい?」
「アタシもね、あんまり寂しくない。
 名残惜しいとかないし、寧ろ早く大学行きたいなーって」
「……そう、なの?
 だって……卒業したら、草加くんと会えない、のに……」

バキッ、と
楓ちゃんの口の中でキャンディが割れる音がした。

「……か、楓ちゃん? く、口の中、大丈夫?」
「な、なん、な……んで、そこで棗くんの名前出てくるの?」
「……え、あれ。私てっきり……」
「あー、あーっ! ちょっと待ってちょっと待ってッ」

顔を赤くした楓ちゃんが大声を上げながら私の口を直接手で塞ぐ。
大声につられてこちらを見たクラスメイトの視線に
曖昧に微笑んで誤魔化して、声のトーンを下げて言った。

「……アタシ、棗くんを好きそうに見える?」
「……え、えっと……?」

実はあの人の事好きなんだ、というなら分かるけれど
そんな質問は聞いた事がない。

「……わ、わたしは、楓ちゃんが最近、草加くんの事、
 見てるなって……思ってたけど」
「……マジで?」
「……ま、まじです」

冬休みが開けてから、楓ちゃんは草加くんをよく見てるようになった。
前は草加くんがいたら積極的にからかいに行っていたと思うけど、
今は遠巻きに、ぼうっと見ている事が多くなったと思う。
……という事を伝えると楓ちゃんは何故か
不満そうな顔をした。

「……ごめん、私の勘違い、だったら……」
「あ、違う違う。桜ちゃんが謝るような事じゃなくて……うーん」

二本目の飴を取り出しながら難しい顔をして唸る。

「ぶっちゃけ……棗くんが何だか気になるのは確かなんだけど……、
 好きとかそういうのかは……分かんないんだよねー」
「ええと……気になるけど、好きじゃないの?」
「そもそも今まで男の子を好きになった事なんてなかったし……
 気になる男子……でもデートしたいとか、ちゅーしたいとか
 そういう訳じゃないんだよね……」

眉間の皺を撫でながら、楓ちゃんは絞り出すように言う。
いつも冗談みたいな事ばかりを流暢に喋る彼女だから、
一つずつ整理して置いていくように、慎重に喋るのは珍しかった。
顔を殆ど曇らせたりしない楓ちゃんが不安そうに私を見上げて
くるという構図もなんだか珍しくて、

「……なんか」
「うん?」
「……なんか、可愛い……楓ちゃん」
「へッ!?」

またバキッと楓ちゃんの口の中で飴が砕けた。

「い、いや確かにアタシ今まで男の子を好きになった事なかったけど
 だからと言ってそっちの気があるわけじゃ……」
「……えっ!? あ、わた、私、そんなつもりで言ったんじゃ、
 あ、でも楓ちゃん……が、可愛いってゆうのはホントで……」
「あーもー、恥ずかしい事さらっと言わない!
 第一アタシなんかよりも桜ちゃんの方がずーっと可愛いんですーっ!」

寄越せその女子力、とかよく分からない事を言いながら
頬をむいっと軽く横に引っ張られる。
何か喋ろうとする度に頬が伸び縮みするから
何も言えないまま担任の先生が来てしまった。
今のが楓ちゃんの照れ隠しだったのかもしれない。
これ以上草加くんとの事を追求しない方がいいのかなと思ったけれど、
でも本当は耳が真っ赤になっていて、必死に誤魔化そうとする
楓ちゃんはやっぱり可愛い女の子に見えた。
今のが同級生と初めてした恋バナだったのかな、と考えながら、
私たちは並んで卒業式の行われる体育館へと向かっていた。

   *

「あ、仲木戸さん」

式が終わって、最後のHRが始まるまでの短い時間。
お手洗いから戻る途中、廊下で草加くんと会った。

「式長かったねー。僕正直、途中から寝そうだったよ」
「……楓ちゃんは、完全に寝てたよ……」
「……ほんとあの人はあえて空気無視するね」

首をガクガクと危うげに動かしながら式中で堂々と眠る楓ちゃんの姿が
容易に想像できたのか、草加くんは心底呆れたという顔をした。

「でも、古林さんに茶化されたり突っ込み入れたりするのも
 今日で最後かぁ……なんか実感ないよね」

確かに式が終わってみても明日からもうこの学校に来ない、という
実感は湧いてこなかった。むしろ本当に自分は卒業するのか、
明日から来なくていいのかという疑問と不安にかられてしまうくらい。
それくらい自分がこの学校になじんでいた、という事だったんだろうか。
私以上に学校という場になじんで、友人も多かった草加くんが
実感がないと言うのなら、きっと誰もそんなもの感じていないのかもしれない。

「……草加くんは、卒業するの……寂しい?」
「……えっ、それは……」

そこで草加くんは足を止めた。
丁度、体育館へ続く渡り廊下の前で、三月の陽が差し込んでいる。

「……寂しいかな……ほら、離れ離れになる訳だし、僕ら。
 何も今生の別れって訳じゃないけれど……」

逆光になって草加くんの顔はよく見えない。
でも、何となく彼が笑っているのは分かった。

「否応にもさ、今日で色んな事に区切りをつけさせられる訳だし
 ……だから、ちょっと寂しいかな」

草加くんは目線を逸らして、寂びそうに笑ってた。
そんな彼を見るのは初めてだったかもしれない。
私の知っている草加くんは表情をころころ変えても、
最後には明るく笑っている、そんな人だったから。

「……草加く――」
「――でもさ! 大学生活が楽しみでもあるよ。
 入りたい大学に何とか入れたし……バイトして一人暮らししようとも
 思ってるんだ。うち親とか弟がうるさくって」

前に歩き出し、逆光から抜けた彼は
いつも通りの私の知っている顔で笑っていた。
でもそれは一瞬で私の横を通り抜けてしまって、
振り向いた時には背中しか見えない。

「……卒業したら、新しい事を始めるんだ」

自身への決意表明みたいに、彼は低くつぶやく。
私はそれにたった一言しか返してあげる事が出来なかった。

「……うん。素敵な、事だと思う」

自分の教室に戻る前、草加くんは一度だけ振り向いてくれた。

「ありがと、仲木戸さん」
「……うん」

楓ちゃんもそうだけど、卒業式という最後の日に
初めての表情を見られるなんて不思議だ。
私の知らなかった楓ちゃんの可愛い所、草加くんの寂しい所。
それを深く知る事の出来ないまま、
担任の先生が最後のHRの合図を出した。

   *

「終わったな」
「……終わったね」

最後のHRが終わり、保護者や在校生、卒業生で溢れる玄関口。
ここを出れば本当に戻れないような気が皆しているのか、
不思議と校庭側に出ている人は少ない。
そういう私と藤も、待ち人を校庭ではなく玄関で待っていた。

「……卒業なんだね」
「そうだな」
「……明日から……来ないんだよね、学校……」
「ああ」
「……藤は……卒業、寂しい?」
「あんまり」

あまりにもスパッと言い切られてしまったので
一瞬返事を聞きのがしたのかと思った。
ある意味、藤は楓ちゃんよりもいつも通りのまま
玄関にあふれる人をぼうっと見ていた。

「ああ、でも。もし桜が後輩だったら
 わざと留年するかも。それで一緒に卒業する」
「……ぅ」

藤はたまに、さらっと凄く恥ずかしい事を言うから
反応に困ってしまう。
困っている私を見るのが楽しいとかではなく、
藤の場合真面目に半分くらい本気で言ってしまうから
余計に何も言えなくなってしまう。

考えてみれば、私は藤の事を色々と知っているつもりだけど
凄い事を平然と言ったり、驚かされる事は多い。
今日の楓ちゃんと草加くんみたいに、まだ私の知らない
藤がまだ沢山あるんだろうか。

「……桜」
「……え、なに?」
「そんなに見つめられると恥ずかしい」

そう言う藤の顔はちっとも恥ずかしそうじゃない。
無意識に藤を見つめていた事に私が恥ずかしくなって、
慌てて目線を逸らす。まだ肌寒いはずなのに顔が暑くなるのを感じた。

少し火照った頬をまだ少し冷ややかな風が撫でていく。
ふいに、左手に新しい温もりを感じて、視線を落とすと
藤の手が私の手の上に重なっていた。
私より少し大きい男の子の手が、細い指先をくるむように掴む。

「俺は桜と一緒に卒業したって事に意味というか……感慨深い。
 入学式から今までって考えるとな」

優しい声とは裏腹に、握られた手を力は少し強かった。
遠い目をした藤の目は目の前の卒業式の名残ではなく、
三年前に戻った光景を見ているんだろうか。

「あの頃の桜は俺から逃げ回ってた」
「……藤が、愛想悪いから」
「俺は精一杯愛情を伝えているつもりだったが」
「……それにしては無表情だった……」
「顔に出ないタイプなんだ。今はもう知ってるだろ」

遠い日から藤の目が戻ってくる。
こちらを向いた彼の眼に、今目の前にいる私が映っていた。

「――うん。知ってる」
「桜! おまたせー!」

玄関の向こう、校庭の方から声を張り上げて私の名前を呼ぶ人がいる。
昔よりもずっと綺麗になって、ハイヒールで歩くのも慣れた
お姉ちゃんがカメラ片手に手を振っていた。

「先輩、やっと来たな。行こうか」

つないだ手はそのまま、藤が私を引っ張る。
玄関から空の下に出るまでの距離はあっという間で、
昼下がりの眩しさが目を焼いた。

「ほらほら、あっちで写真撮ろ。二人の制服姿は
 今日で最後なんだから一杯撮っとかないと」

そう言ってお姉ちゃんはまだつぼみが膨らみきっていない
桜の木の下に私たちを押しやる。

「あれ、君たち桜のお友達? 一緒に写真撮る?」
「んー? あれ、その人だれ?」
「もしかして仲木戸さんのお姉さん……?」

その内、校舎から出てきた楓ちゃんと草加くんも巻き込んで
私たちは桜の木の前に並んだ。

「……な、なんか、ごめんね?
 お姉ちゃん、ちょっと強引で……」
「い、いやそんな事ないよ。最後に写真撮れて思い出になるしさ」
「後でデータちょーだいねー」
「ああ、分かった」
「はいはーい、こっち向いてねー」

お姉ちゃんが呼び掛けに、私たちの目線がレンズに向く。
――さっき藤の目に映った自分のように、
今もちゃんと笑うことが出来るだろうか。

「ほら、笑って――」

不安と期待をない交ぜにしたまま、
三月の空の下にシャッターの音が響いた。

fin.