伍/我が愛しき赤鬼 一〇

――色は匂へど 散りぬるを
  我が世誰そ 常ならむ
  有為の奥山 今日越えて
  浅き夢見じ 酔ひもせず


歌が聴こえる。
色葉はこれを知っている。
確か、古典の授業で習った「いろは歌」だ。
自分と同じ名前の歌。
でも、その歌の内容が世の無常を歌った切なく悲しげな歌で
ある事も色葉は知っていた。
けれど――この歌声は、何処か違った。
悲しいのに、美しい。そういう歌声だった。

目の前に女の人がいる。
二十歳前後に見えるが、顔はちょっと幼い感じのする人だ。
さらさらの黒髪は墨の川のように深くて、
纏う青い着物はその人にとてもよく似合っていた。
「いろは歌」はその人が歌っているようだった。
何となく、ひまわりが似合いそうな人だな、と色葉は思った。

……不意に女性がこちらを向き、目が合った。

「ごめんなさい」

何故か、謝られた。

「どうして謝るの?」
「私が愚かなせいで、貴方に沢山迷惑をかけたわ」
「そうなの?」
「ええ」

この人は、誰かに似ている。
でも、誰だっけ?

「――許すよ」
「……どうして?」
「よく分からないけど、あたしはもう困ってないから」
「……でも、私は」
「歌って」
「え?」
「貴方の歌声はとても綺麗で、気持ちが良いの。
 あたしの為に歌って。そしたら許してあげるから」

女性は一瞬戸惑ったような顔をしたが、
すぐに笑顔になった。

なんて綺麗な笑い方をする人なんだろう。

「じゃあ、一緒に歌いましょう」
「え、や、そんな。あたし、歌は上手じゃないから」
「大丈夫。きっと、一緒に歌えるわ」

そうかな、と照れくさくなって手を擦り合わせた。
そうよ、と女性は笑った。
何だか歌えそうな気がしてきた。

「じゃあ……お隣失礼」
「ええ。どうぞ」

そうして、二人分の歌声が重なり合った。



「そろそろ行かなきゃ」
「え?」

気付いたら、そこは夕暮れのひまわり畑だった。
黄昏色の光を受けて、ひまわりは美しく輝いている。

「何処に行くの?」
「分からない。でも、きっと遠い所」
「もう会えないの?」
「ええ」

悲しげに眉を下げる色葉に、女性は優しく微笑んでみせる。

「でも、平気よ。独りではないから」
「え?」
「明。こっちよー」

ひまわり畑の向こうで、誰かが手を振っているのが見えた。
若い男性のようで、
その髪は黄昏の橙色よりなお濃かった。

「あの人と、一緒に行くの」
「だぁれ?」
「私の」

そこで女性は言葉を区切り、照れたように顔を背けながら
それでもはっきりと言った。

「……とても大切な人」
「じゃあ、あの人と二人なら平気だね」

女性は嬉しそうに笑った。
その姿が遠ざかり、女性は若い男性の隣へ走っていく。

「さようなら」
「……うん。ばいばい」

色葉は手を振った。女性も手を振った。

最後に、女性は悪戯っぽく笑って、付け足した。

「朽名瑛君を、よろしくね」
「……えっ?」

どういう意味か問おうとした時には既に、
女性と男性は手を繋ぎ、並んで歩き出していた。
その後姿がとても幸せそうで、色葉には口出し出来なかった。

そのまま暮れ行くひまわり畑で呆然としている内に、
色葉にもお迎えが来た。

「色葉」
「瑛」

からころ、と下駄を鳴らして赤い髪の毛の青年を見付けて、
色葉は走ってその青年の隣に行った。

「誰と一緒にいたんだい?」
「んー? 知らない人。……でも」

振り返ってみる。
あの二人の姿は何処にも見当たらず、ただひまわりが咲いていた。

「知らない人じゃ、なかった気がする」

二人で歌った「いろは歌」を思い出してみる。

寂しくて悲しくて切なくて儚いのに、
それは本当に美しかった。

この光景みたいに。


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