伍/我が愛しき赤鬼 〇六

「早くしろ! 色葉!」
「ちょ、ま、アヤちゃん、は、早いよ……!」
「体力がないな! 日頃の運動不足を呪え!」
「は、はひ……」

自分よりずっと年下に見える少女に
母親のような事を言われると地味に傷付く。

確かに、今の状況は、体力がどうのこうのと言ってる
場合ではないのだが。
神社へと続く山道は都会っ子で体力のない帰宅部の
色葉にとっては酷なものがあった。

「来たぞ!」

彩葉が叫んだその瞬間、色葉の足元から黒いものが出現した。

「きゃっ――」

足を掴まれた色葉は雨でぬかるんだ地面に足を滑らせて
泥の中に頭から突っ込んだ。

「うぅーっ……」

さきほどの強気な態度は本当にどこへやら、と言いたくなるほど
今にも泣きそうな顔で色葉が唸った。
そんな色葉に合わせるように、暗い空も勢いよく唸る。

「…………っ」

体を大きく跳ねさせる。
本当に泣き出しそうになったが、歯を食いしばって耐えた。
志枝から借りた青い着物はすっかり泥々(どろどろ)だ。
色葉の足を掴んだ黒い何かはゆっくりと
地面から起き上がるように姿を現した。
その姿を見て、彩葉がかすかに戦慄だった。
それほどにそれは禍々しかったのだ。

「下がっていろ!」

ぴしゃりと言い放つ彩葉は前に出ると、
手をかざして静かに、荘厳に言葉を紡いだ。

「我はこの土地の空と大地を見守る者」

その彩葉の姿に、山が、土が、空気さえもが戦いた。

「この地を乱す愚か者を、我は決して許さない」

最初は何かを発動する為の呪文か、と思ったが
色葉は本能的に悟った。
これは――呪文ではない。警告の言葉だった。

「汝はこの地を乱す者。その決意の化身。
我は容赦なく汝を殺そう。それが我の使命であり、約束」

その時の彩葉の姿を、色葉はとても神様らしいと思った。

「今すぐこの地を去るがいい」

だが、万物が戦いたその姿に怯まず黒いものは
襲い掛かってきた。

「はっ、頭が悪過ぎて恐怖さえ知らないか!」

彩葉がぐっと、何かを握るような仕草をする。
一瞬前まで黒いものがいた木が、根本から粉砕された。

「すごっ……」

その力に圧倒されて、黒いものが自分の方に
向ってきている事に気付かなかった。
気付いたときにはもう遅かったが――彩葉の反応はまさに神速。
彩葉の手が地面に触れた途端、色葉のすぐ傍の木の枝が
伸びてきた。
どす、と黒いものの首と思われる場所に木の枝が刺さる。
それから何本も刺さるが――化物は、戦意はだけは失わなかった。

ぐりん、と目らしきものを色葉に向けた。
短く悲鳴を上げて、色葉の目がそちらを見た。

「馬鹿者! 目を合わせる奴があるか――!」

色葉は確かにその叫びを聞いたが、それはただ
耳を通過するだけで色葉の心まで届かない。
色葉は、目を逸らしたいのに逸らす事が出来なかった。

「ぁ…………」

何とか動く手で目を覆う。
しかし黒いものの目から伝わってきた意識は消えない。

黒いものは色葉に言った。

飲まれてしまいなよ、と。
あの赤鬼と同じになれるよ、と。
鬼になってしまいなよ、と。

「っるさい……!」

それを、色葉は弾いた。

「こんなものに、あたしは渡さないわよ――」

刺さった木の枝ごと、黒いものが霧散した。
目だけを動かして横を見ると、手をかざした彩葉が立っていた。

「よく言った」

こんな状況下にも関わらず、彩葉が嬉しそうに笑う。
つられて笑いそうになったが、彩葉の向こうに赤い姿が見えて
心臓が跳ね上がった。

赤い髪と臙脂色の着物が濡れ、体に張り付いている。
依然髪からは角が伸び、目は金色に輝き、爪は伸びている。

「“色葉”」

瑛が色葉を呼ぶ声が少し変わっているのに色葉は気付いた。
その事の意味は分からなかったが、
何故か凄く胸が温かくなった。


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