伍/我が愛しき赤鬼 〇八

「さっきの君を見て、吃驚したよ。あんな君は見た事ない。
 別人なんじゃないかって思った。
 ……正直に言うとね。僕は色葉が逃げるとばかり思っていた。
 親しい友人が、本当は爪を伸ばして自分の心臓を
狙っていたんだから」

訊いておいて色葉に答えさせる暇を与えずに、
更に口は動いた。

「僕は、逃げる君を殺そうと思っていたんだ。
 君に嫌われて、嫌われながら殺そうと思った。
 でも君は逃げなかったし、逆に怒っていた。
 僕はまた、君を殺す機会を失った」
「……瑛?」

とつとつと語る声が、次第に弱まっているのを色葉は感じた。
それとは逆に腕に篭る力が乱暴なものとなり、
色葉の顔はわずかに青ざめた。

「あ、瑛」
「……どうして、色葉はそうなんだ。
 大切な時ばかり、僕を困らせるんだ」

瑛の鋭い爪が背中に食い込んだ。

「瑛――」
「色葉はずるいよ」
「瑛……痛い」
「どうして、本当に」
「い、痛いよ」
「僕は……」

青い着物に、小さく赤色が浮かんだ。

「僕は」

その声はまるで、弱々しく泣き伏せる子供のようだった。

「僕は色葉を殺したくない」

数秒、時が止まったように色葉は感じた。
自分の鼓動も、相手の鼓動も。
体温も腕の力も声も血の滲みも。

「……色葉を殺す為に生まれてきたなんて。
 そんなの、嫌だ」

色葉の頬は、瑛の頬に当たっている。
何か、冷たいのに暖かいものが伝ってきたのが分かった。

「瑛?」

痛みも震えも恐怖も寒さも忘れて、
色葉はただ、目の前の赤い鬼の心配をした。

「泣いてるの?」
「…………」

まるで隠すように、強く抱きしめられた。
今度は、優しかった。

「瑛……ねえ、瑛。聞いて」

臙脂色の着物の背中に手を回す。
こころなしか、彼の背中は震えているように思えた。
寒いのか、それとも。

「あたしが逃げなかったのはね、殺されない為だよ」

瑛の背中が反応を示した。

「あたしは、瑛に殺されたくない。
 それだけは嫌だったから、だから瑛の所まで戻ってきたんだよ」

負けないくらい色葉も回した腕に力を込めた。
こうすると、相手を包んでいるような、
相手の事が何でも分かるような錯覚をする。

「何か方法はあるって、志枝さんも言ってた。
 無いかもしれないけど……その時は、方法を作っちゃおうよ。
 どうにかなるよ。
 あたしが怒ったのはね、男の子が女の子を泣かせたのと、
 そんな運命絶対イヤだって思ったからだよ」

頬には依然冷たくて暖かいものが当たっている。
でも、抱かれているから瑛の顔の確認は出来なかった。

「瑛は、いつもあたしを助けてくれたよね。
 あたし、バカだから。今回もね、どうしても瑛にしか
 助けてって言えないの」

冷えた体で互いに抱きあって、
なにしているんだろう、と思った。

「あたしを殺さないで」

瑛の肩が震えたのを、
瑛の声が震えたのを、
色葉はちゃんと感じていた。

「あたしは――ずっと瑛と一緒にいたいから」

それは、
本当はずっと昔から分かっていた思いだった。

頼りになるお隣のお兄さんは、
いつのまにか憧れの人になっていた。
それに気付いたのは、瑛が消えてから。

「ずっと一緒にいたかった」

あの夏祭りの日の後。
空っぽになった隣の部屋を見て、色葉は胸がどうしようもなく
苦しくなった。

「これから、ずっと一緒にいてくれる?」

色葉は、自分が泣いている事に気付いた。
青い着物の上に、更に濃い青の染みが出来る。

少し離れてみると、瑛はもう泣いていなかった。
けれど金色の目の端にまだ涙が浮かんでいるのを見て、
それが、とても綺麗だな、と思った。
恋をしていたと気付いた後、
思い出す瑛の赤い髪も笑顔も深い感じの黒い目も
思い出す全てが綺麗だった。

「ほら」

瑛は笑った。
色葉もつられて笑った。
こんな風に綺麗に笑えているかどうかは分からないけれど。

「やっぱり、色葉はずるい」

硬くて大きな手が色葉の頬をそっと包む。
瑛の顔が近付いてくる。
色葉はそれを拒まず、静かに目を閉じた。


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