肆/二百年の恋 〇四

明とイロハの暮らす家の庭。
寒さは和らぎ、木々の先には小さく緑の点が付いている。

『春が近いね』

誰もいない縁側で明がぽつりと呟く。
そんな穏やかな光景に、白髪の女性が入ってきた。

『珍しいですね。山から降りてくるなんて』
『一つ、訊きたい事があったからな』

断りも入れずに、どかっと明の隣を陣取る彩葉。
イロハは今頃村の女性たちとお茶を飲んでいるはずだ。

『お前ら、いつまでいる気だ?』

その問いに明は言葉を詰まらせた。
避けていたことが急に胸に突き刺さり、
彩葉の方を見ることが出来ない。

『……春になったら、出て行こうと思っていました』
『もうすぐ春だな』
『段々、そんな気持ちも薄れてきたんですよ。
 ここが……あんまりに居心地良すぎて』

弱く吐く言葉に、彩葉は鼻を鳴らした。

『当たり前だ、私が守っている土だからな』
『はは、それもそうですね』

風が吹いた。
風はまだ寒く、首をさっと撫でて去っていく。

『初めてなんですよ』

ともすれば、その風に攫われていってしまいそうな
か細い声。

『僕は百の鬼を治める長、イロハは名家の娘。
 このようにただ季節毎の空気を読んで土を耕し、
 その実りを喜び冬は静かに暮らすのが。
 多くを求められていないのが……初めてなんです』
『で?』
『離れ……難いです。
 でも、ここの人だって鬼と暮らしていると分かるのは
 嫌でしょうね。イロハと話し合いたいと思います』

それだけ聞くと彩葉は別れの挨拶もなしに立ち上がり、
山へ向って歩き出そうとする。
その白い髪が揺れる背中に、明は投げかけた。

『彩葉様は、どうしてこんな場所の氏神を?』

こんな場所、とはあんまりな言葉だったが、
此処は確かに山間の村でどうやっても裕福にはなれそうもない
小さな小さな、穏やかな村だ。

彩葉の足がぴたりと止まり、
振り返らずに言った。

『私だって、非情ではない』

明はぽかんとした顔でその背中を見つめていたが、
やがて納得したように一人頷いた。

『神様でも恋はするのかな』
『うるさい』

照れたような、怒ったような声でぴしゃりと言い放つ。

『明。南から百の鬼が移動していると聞いた。
 お前が統治していた地方から、な』

去り際、不吉な言葉を落とした。
明は苦い顔をしながらも、白い髪が流れる背中に感謝を述べた。

『ご忠告、どうも』
『面倒が起きるようなら、さっさと出て行けよ』

ひゅうっと、口笛のような音を立てながら
冷たい風が吹いた。
明が一瞬目を閉じた隙に、白い頭の女性の姿は何処にもなかった。



彩葉の忠告から三日後の早朝。
東の空にほんの少し光が差し、太陽がその天辺を見せようかと
いう時間帯。
もうすぐ村人は起き出すだろうが、あくまで「もうすぐ」であり
どの家にも誰かが動いている気配は皆無。

ただ一つ――明とイロハが借りている家の庭を除いて。

イロハは奥の寝室で静かに寝息を立てながら眠っている。
明は身震いするほど寒い朝の庭の中で立っていた。
その目は普段の穏やかなものから一変して、
何者も見逃さぬような鋭いものだった。
しばらくして家の玄関口の方から突然足音が聞こえた。
足音の主は――三十過ぎかと思われる、屈強な男性だった。

『……そろそろだと思っていたよ』

見た目的にはどこぞの農家の息子だが、
男の頭には二つ、鈍く光る――角があった。
明と同じ『鬼』の男。
その屈強な男は自分よりずっと幼く見える明を見るなり
身を縮こませ、明の数歩前で静かに跪いた。

『お久しぶりに御座います――頭領』
『ああ。久しぶり、章臣(あきとみ)』

章臣、と呼ばれた男は名前を呼ばれ更に頭を低くした。
彼は明の右腕と呼ばれた存在であり、明不在の今
「仮」として百の鬼の頭領の座に就いている。

『まあ……用件は分かっているよ。
 僕に、戻ってほしいんだろう?』
『はっ。……直入に申し上げます、頭領。  どうか、どうか――儂らの許へ戻ってきてはくれませんか』

震える声で章臣は懇願した。
大人しくしていても、鬼というだけで人間に
殺されそうになってしまうこの世を歩くのは怖いと。
明が居た時代は、他に類を見ないほど確かに上手くやって来た。
貴方が必要だと――訴えた。

『鬼の痛みは、同じ鬼としてよく分かっている』

その言葉に、章臣は堪らず希望を灯した表情を上げた。
しかし冷えたままの顔の明を見て、その灯はあっけなく消えた。

『でも、僕は一人の生きる“者”としての幸せを見付けてしまった。
 あの女を護るのが、愛すのが――僕の一番大切なことだ』

明が全部言い終えぬうちに、章臣は愕然と頭を重く垂らしていた。

『章臣。僕はお前達のことが心配じゃないわけじゃない。
 お前達のことを思って眠れぬ夜を何度も過ごした。
……信じてくれ』
『……っ、誰も疑ったりしねぇ……頭領はそういうお方だ。
 安心してくだせぇ、頭領。お二人の邪魔はしねぇから……』

崩れていく章臣の言葉。

『ああ……ありがとう。章臣』
『勿体ねぇお言葉……』

章臣は立ち上がり明に深く礼をすると足早に去って行った。
明は小さくなっていく背中に一度だけ「ごめん」と言った。


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