肆/二百年の恋 〇六

『お前、今自分が何て言ったか分かっているのか?』
『勿論よ。……私が鬼になって、明と一緒にあの鬼達と
 道を歩くの。明が人間になったって何の解決にもならないなら
 ――私が鬼になる』
『明がうん、と言うとは思えないな』
『平気よ』

イロハは顔をほころばせて、
自信たっぷりに答えた。

『明と私なら平気』

彩葉はしばし言葉を失った。
自ら異形の物の怪にしてほしいと言ってくる人間。
前代未聞の、大神だって予想したことなどないだろう。

さきほどよりも長い沈黙が降りてきた。
イロハは彩葉の返事を待っている。
彩葉はかけるべき言葉を探している。

そして、ゆっくりと重苦しい声が沈黙を破る。

『――いいだろう。人間。
 それが真の望みならば、叶えてやろう』

彩葉は自分の言ったこの言葉を、
二百年以上も後悔することになる。



『はっきり言っておくが、成功するとは限らない。
 妖気に当てられる以外で人が鬼になった例はないからな。
 あくまでこの方法でなれる「はず」というだけだ』 『……失敗した場合は?』
『最悪の場合、死ぬ』

さらりと言われたその辛らつな一言に、
しかしイロハは決して引かなかった。

『大丈夫。きっと平気よ。
 明と同じになれるんだもの』



彩葉が提案した方法は、単純だった。
鬼の妖気をイロハの中に入れる、と。

『それだけで上手く行くものなの?』
『言っただろう。それは分からない。
 気を入れた後はお前次第でしかないからな』

言いながら彩葉はイロハを神社の敷地内にある
大きな木――御神木の前に立たせた。

『この樹は私よりも長く生きている。
 様々な“気”が溜まっているんだ』

あくまで簡潔な説明しかしない彩葉は少しばかり焦っていた。
鬼の気に関する事の以上に、イロハに関する事だ。
いつ明に感付かれるか、分かったものではない。

『時間が惜しい。手っ取り早く済ませるぞ』
『――うん』

真剣な面持ちで頷くイロハ。

葉の落ちた神木は、それでも近付く者に威圧感を感じさせる。
葉が落ちようが朽ち果てようが、
それでもこの樹は永い時を生きた樹なのだ。

その前に一人の少女が立つ。
美しい、と彩葉は改めて思った。

風に揺れる長い髪は濡れたように艶やかで、
黒瞳は一転の曇りもない。
唇は形良く、肌は健康的な色で
身体は痩せ過ぎても太り過ぎてもいない。
間違いなく美しい部類に入る女――

そんな綺麗なものが、鬼に堕ちる。

『さようなら、人間のイロハ』

そんな言葉を投げかけて――彩葉が両腕を伸ばし
掌に力を籠める。
それと同時に樹が淡く怪しく光り始めた。

小さな光の粒はイロハの許へ滑っていく。

そして――







“記憶”を呆然と観ているしかなかった色葉の胸が疼き出した。

「あ、……ぃ、あ」

何かが胸の内で暴れているような感覚だった。
何かが此処から出せと暴れている。

それに涙がぼろぼろと溢れて止まらない。
頭の中に溢れるイメージが、記憶を見ていると哀しくなってくる。
でも哀しいからではない――懐かしいから……?

最後のイメージは、
最後の、イロハという人間が鬼になるところの記憶は、
樹の記憶ではない。

これは――遠い遠い自分の中の記憶。
魂に刻み込まれていた記憶。

何かが牙を剥いてくる。
誰かが角を向けてくる。

何処から?
自分の中から。

誰が?
ずっとずっと自分の中に居た――もう一人の“いろは”が。

「っ、や、だ……」

来るな――と言っても聞かない。
それは器を、殻を、封を破って出てこようとしていた。

暴れている。
鬼の本性が牙を剥いている。
出してはいけない。
こいつを、出してはいけない。

こいつを存在させてはいけない。

「あ、っうぅ……! あ、ぁあ」

明。あきら。アキラ。明。違う。

瑛。
朽名瑛

鬼が――鬼が来る。
あたしの中から――鬼が来る!

「たすけて――」

 ――――“瑛”!


[夢へ]