肆/二百年の恋 〇一

色葉は雷が苦手だ。
昔、まだ平気だった頃に雷が落ちる瞬間を見た。
瑛に出会うずっと前の、小学三年生の時の話だ。

自宅のマンションの窓を、バケツを引っくり返したかのような
強い雨が打っている。
雷が鳴っていて、何度も青く光っては恐ろしい音を響かせていた。
だがあの頃はまだ平気だった。
しかし、色葉は家から見える遠くの山に
雷が落ちる瞬間を見たのだ。

父親からこの雨のせいで電車が止まったので遅くなる、と
電話があり夕食を一人で済ませて部屋でごろごろしていた。
このような雨は大抵一時間程度で弱まるはずが、
なかなか止まずにふと窓を見た。
その時、空全体が一瞬光った。
吃驚した次の瞬間、厚い灰色の雲から一筋の青い閃光が
真っ直ぐ山に向って落ちた。
どん、という腹の底に響く音と、
電気が地面を這っているような耳障りな音。
地面が一瞬揺れたような気がした。

途方もないエネルギーが自分のすぐ近くに落ちたという実感は
すぐには湧かなかった。

しかし呆然としている間に山には火が熾り、
それはどんどん燃え広がっていく。
雷の恐ろしさを実感した直後、色葉は布団に潜り込んで
声は出さず、がたがた震えて泣いた。
父親が帰ってきた時、その腕に飛び込んで大泣きした。

「大丈夫、大丈夫。お父さんが居るから色葉はもう大丈夫だ。
 雷が来たら、お父さんが守ってあげるからな」

そんな子ども扱いな慰めに、どれだけ安心しただろう。

その山火事は、すぐに鎮火されて全国新聞に載った。
被害はそれほどでもなかったらしい。
それでも色葉の心に根付いた恐怖はずっと、
高校生になった今でも――消えてはいない。





遠い空が低く唸る度に色葉の心臓は飛び上がった。
今すぐ布団に潜り込んでしまいたいが
目の前に彩葉が居る手前、そんなこととても出来ない。
こんな小さな子供の前で「雷が怖い」なんて言えない。

「雷が怖いのか?」

ばれてしまった。
友人の何人かにも既にばれていて、自分では必死に
隠しているつもりなのに「色葉、判り易過ぎ」と言われる。

でも、今は雷に怯えている場合ではないのだ。
今から彩葉が話すことには、
相当の覚悟を持って挑まなければならない……らしい。
それにしても、彩葉は本当にどうしてしまったのだろう。
拙かった言葉が急に流暢になり、
眠たそうだった目は鋭く冷たい光を湛えている。

「あ、あのさ。アヤちゃんって何歳なの?」

場違い、ということは訊いてから気付いた。
彩葉は特にそんなことを気にした風もなく、
しかし何故か黙り込んでしまった。

「……何歳に見える?」
「え、えっと、十歳か……もうちょっと下かな。
 でもアヤちゃん凄く大人っぽいよね。
精神年齢はまるで落ち着いたお婆ちゃんみたいだよ」
「つまり見た目は幼子、中身は老獪か」
「……どっかの探偵少年みたいな台詞だね」

彩葉はその突っ込みが理解できなかったらしい。
……あ、あれ。最近の子はあの漫画知らないのかな。

「ま、ともかくだ。貴様の評価はあながち間違ってはいないぞ。
 私という“存在”と、この“体”は
本来は一致しているものではないからな」
「……はい?」
「私は、そもそも姿は持てど体は持っていないからな。
 こちらで現れるには器が必要なんだ。神族を視ることのできる
 者はそうそういないしな。それでなくとも現代は妖気が薄い」
「……あのー……」
「更に私は氏神だからな。妖気の弱いこの村人達を守るためには  常に顕現して、見守らなければならん。
 そして昨年、捧げられたのがこの娘の体よ。
まあ、この娘だって不本意だっただろうから文句など
言ってはならぬと思うが、幼子の体は動きにくくて好かぬな」
「………………」
「何を言っているか解らないという顔だな」
「だって何を言っているか解らないから……」

彩葉は溜息を吐いた。
その幼く可愛らしい顔には到底似合わない、重苦しい溜息だった。
それから目を閉じて、何かを思案する顔をした。
何から話そうか。何処から話そうか、考えているようだった。

慎重に、と思っているのか思案は長かった。
その間色葉は口を挟むことも出来ず、ただ座って
彩葉が口を開くのを待っていた。
時々、響く空の唸りに身を竦ませながら。

「……あの鬼と娘の話な」

ようやく彩葉が口を開いたとき、
色葉の手には嫌な汗で濡れていた。
そして彩葉の声の重さに、また背中に汗が浮かんだ。

「鬼と娘は手を取り合って遠くへ逃げて
 二人は幸せに暮らしました、では終わらないんだ」
「え……」

あのままハッピーエンドだと思っていた。

「見捨てられた百の鬼達は若鬼を追って来たんだ。
 でも奴らは憎んではいなかった。
 ただ若鬼が戻って来てくれればと思っていた。
 けれど若鬼は鬼たちの懇願を聞かなかった。
 自分はこの村で愛しい女性と生きていくのだ、と」

胸が締め付けられるように痛んだ。
二人は良いかもしれないが、鬼達にとっては指導者を失ったも
同然なのだ。
頼りにしていた人から見捨てられた悲しみ。
それを思うといっそう胸が痛む。

「それのことを聞いて娘は悲しんだ。
 自分のせいで不幸になった者が百もいるのだと。
 娘は悩んだ。夜も眠れずに、目が涙で赤く腫れるまで悩んだ。
 そして――娘は禁忌を犯すことにしたんだ」
「禁忌――?」


「娘は、神に頼んで鬼になったんだ」


その言葉に目の前が歪んだような感覚を覚えた。


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