夢/×××の回想・四

“それ”を前にして、僕はその場に膝から崩れ落ちた。
僕の横では強く噛み締めすぎて唇から血を流している彩葉様が
目の端から涙を零していた。
血と涙が混ざった薄い赤色が地面にぽたりぽたりと落ちていく。

「すまない……」

彩葉様が膝を折って力なく項垂れる。

「すまない、すまない、すまない……っ」

がたがたと、怯えたように震えながら、神が必死に謝っている。
それは僕に向けられたものでもなく、ただ虚空に向っていた。
僕はもう一度、“それ”を見た。
嘘だと思いたかった。
夢だと思いたかった。
僕の目の前に立つ、愛しい人。
嘘であってほしかった。
夢であってほしかった。

彼女の惹き込まれるような深い黒の瞳は、金色に輝いている。
艶やかな黒髪の流れる彼女の頭。その、両耳の少し上。
そこに、禍々しい鬼の角が、二本、生えていた。

間違いない。
間違うはずがない。

そこにいるのは、鬼だ。

「イロハ」

覇気のない声が漏れた。

「どうして」
「私が――!」

唐突に彩葉様が千切れるような声で叫んだ。
薄い赤色の雫は止まることなく流れ続けている。
目は見開かれて、普段の冷静沈着さなどどこにもない。

「私がっ、私がいけないんだ。浅はかだったんだ……。
 イロハが、哀しくて、見ていられなくて……私が…………、
 知らなかったんだ! ここにいるのが、こんなもの、だなんて。
 私はただ……友を、助けて……それだけだったのに……」

両手を顔に当てて、わあっと泣き出す。
神様が、まるでただの童のように泣きじゃくっていた

イロハは知ってしまったんだ。
この前、章臣との話を聞いてしまったんだ。
それで、こんな事を。
君は優しいから。

どうしよう。
君が鬼になってしまうなんて。
人である君は、
人であるべきだったのに。

――あ、あぁあ、ぁ、ぁああああっ!!

不意に、イロハが苦痛の絶叫を上げた。
人が――鬼の気に耐えられるはずがない!

「イロハ!」

堪らず僕は駆け寄った。
イロハの身体から黒い――否、
形容しがたいおぞましい色の霧が滲み出した。
これはこの御神木に堪っていた鬼の“気”……?
昔、この地には鬼が多く住んでいたのか?

耳を塞ぎたくなるような声を上げながら、
イロハは悶え苦しんでいる。
近寄ったその瞬間に、纏わり憑いている鬼の“気”に
弾き飛ばされた。

「が……っ!?」

弾き飛ばされた。
鬼の気に。
この僕が?

「……そうか」

見て分かるけれど――良い方の気ではない。

「お前らも……迫害されて、殺された鬼なのか」

憎しみは、生物の持つ感情の中で最も強い部類に入るもの。
それのみで生きていく事だってできる、劇薬。

「――さわるな」

両耳の少し上の辺りが、ぴき、と音を立てた。
そこから生え出る――鬼の角。
普段は拡散されている精神が一つに集まり、
身体の中で巨大な魂となっていく感覚。
その僕の“気”は、鬼の力となり――

「そんなものがイロハにさわるな――!」

ありったけの力を霧にぶつけた。
ためらいなく真っ直ぐに飛んでいき、霧は吹き飛ぶ。
唸りを上げながら霧は苦しむように辺りを飛び回る。
霧の中心にいたイロハの身体が弾き飛ばされ――
地面に落ちる寸前で受け止めた。

「イロハ! しっかりするんだ、イロハ!」
「……ぁ……、あ、きら……?」

薄く開いた目はもう金の光を灯してはいなかった。
上手く行った事に胸を撫で下ろし、思わず頬が緩んだ。

「イロハ……」
「明……ごめ……なさ……」
「いいよ。もう、僕は君が、」
「明ッ!!」

悲鳴のような彩葉様の声。
はっとなって“それ”を視界に捉えた時にはもう遅かった。

「!?」

霧が――怨念が収拾し、再びイロハの中に侵入した。
僕も一緒に包まれ――

想像を絶する、どす黒い鬼達の悲鳴を聞いた。

     ころ
   さ
          れる    な ぜ

   ふふふふくふくしゅう     をををを
に、にくいにくにににくい
       ににんんにんげにんげん ひとひとひとひとひと
 ころ され る ひ とに ころ さ れる
         ふくしゅしゅゅゅゅううをを を
復讐を復讐を復讐を


「――! ――!? !! ――――!」

なんだこれは。
痛い嫌だ聞きたくない!
手に負えない……!

「いろ、は……っ」

殺さなければ。
これは、今ここで殺さなければ。
さもないと――、でも。
今こいつらを殺せば、イロハが。
イロハの魂に根付いたこいつらを殺したら。

「イロハ!」

ごめん。
ごめん、イロハ。

「いつか必ず助けるから――!」

いつか君が生まれ変わったら。
また君が生まれてきてくれたら。

その時、君の中の鬼を殺すから。



僕が君を殺すから。







そして、二百年後の今。
僕の目の前に“色葉”がいて、
僕の手はどうしようもなく震えている。


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