【其ノ七】夜明け、少女は闇を駆ける 〇一

豪華と質素の中間辺りの品の良い部屋。
その部屋の縁側に一人の男が腰かけていた。
毎日高価な香油で髪を手入れしている貴族の女さえ嫉妬しそうな
真っ直ぐ下へ落ちる癖のない長髪は、この国の人間にしては
色素が薄く、光に透けるようだった。
顔立ちは鼻が高く掘りが深い。目も髪と同様に色が薄い。
本来なら周囲から厭われるであろう異国の香りが濃い容姿だが、
彼はそれを弾き返すほどの美しさに恵まれていた。

柳生汐先。
京でその姓を知らぬ民草はいないとされているほど
有名で圧倒的な権力を保持する柳生家。
その現当主が、彼だった。
夏の夜。縁側で風を浴びていた汐先は
ふと自分の後ろに控えている小姓に声をかけた。

「あざみ。汗ばむから髪を結ってくれ」

あざみと呼ばれた少年――と呼ぶにもまだ幼い子供は
主人の言葉に素早く部屋の奥から髪結い紐を取り出し
汐先の背後に立って、首筋の汗を拭いてから
薄い色の髪の毛をまとめ始めた。
その間、あざみは一言も喋らない。
主人の言葉に対して何も言葉を返さないというのは
あまりに無礼だが、汐先は特に気分を害した風もない。
あざみはそういう子供なのだ。
何に対してもまるで反応というものを示さない。
唯一、汐先が何かを命じる事が彼を動かしていた。
双子の弟、かざみは逆に何にでも反応し反発するというのに。

黙々と一切の表情がなくぼんやりした顔のまま
汐先の髪を結い上げていく。
しかしその動作にほんの僅かに淀みがある事を汐先は感じた。

「かざみが心配なのか」

あざみは黙って頷いた。汐先は背を向けているというのに、
ちゃんと分かっているというような言葉を返す。
かざみは汐先の使いを頼まれて外に出て、
夕方を過ぎても月が高くなっても帰ってこなかった。

「かざみは平気だ。きっと面白い事があって
 今はそれに足を取られているんだろう」

双子の小姓の片割れは何も言わない。何も返さない。

「明日は満月か。満月の夜はいい。
 空気がざわつき妖気が活気付き、
 月を出入り口に怪しい者共がやってくる。
 満月の夜は面白い事が起こるのだ」

舞台役者のような台詞を低く、うっとりとした調子で呟く。

「蚊帳の外で事の成り行きを傍観するのも面白いが、
 それもそろそろ退屈に思えてきたな」

紐を結び、汐先のまとめられた髪の毛が
背中にばさりと滑り落ちる。
夜気に香の香りが散らばった。

「だから、愉しい事を起こしに行こう」

   ◇  ◆  ◇

清姫(きよひめ)が誘拐された。

二日連続で誘拐事件が起きなくても、と考え、
すぐさま事の重要性を理解して周は叫んだ。

「えっ――ええええぇぇ!?」
「ちょ、周君っ。声が大きいですっ」
「は、はい。ごめんなさい」

陰陽師の寮の敷地の奥の部屋。
他の部屋よりも数倍大きなその部屋は陰陽寮の頭、
篠岡継雅(ささおかの つぐまさ)の住居だった。
寮の陰陽師の卵達全員の憧れであり目標である継雅は
葛城野宮(かつらぎのみや)の血筋でありながらも
身分などで人を見ない性格から大勢の寮生好かれている。

そんな人格者に近い継雅に呼び出された周は部屋に入った瞬間、
空気の固さに驚いた。
葛城野宮の清姫と異母兄妹である継雅は妹を大層溺愛しており、
彼女と親友の仲である周をしょっちゅう呼び出しては
妹の近状を根掘り葉掘り訊いてきた。
急がしい身の上でなかなか会えないのが
余計に彼の妹への愛情を深めさせているらしい。
今日も用件はそうだと思っていたのに普段は穏和な表情が
真剣であり、一体なんだろうと無意識に手を握り締めて
彼の前に正座をした途端、

「――清姫が、誘拐された」

と言われたのだ。

「き、清姫が誘拐されたって……一体誰に!?」
「これを見てほしい」

静かな声で一枚の書簡を差し出す。
継雅が静かな声音なのはいつもの事だが、
今日のものはまるで別の物に感じられた。
差し出された書簡紙は昨日周が誘拐された際に藤倉が使った
ものよりも更に上を行く高級な和紙だった。
そこには短い文章。

『清姫を返してほしかったら東雲周を連れて、
 満月の夜に柳生の本家まで足を運べ。
             柳生汐先   』

「うわ……」

文章の内容よりも、最後に書かれた名前に
周は思い切り顔を苦くする。
ふらりと現れ妙な事を言い落として去っていく汐先が
周は苦手だった。しかも名指しで自分が指定されている。
これはもう嫌な予感しかしなかった。

しかし周の心にこの誘いを断るという選択肢はない。
一度危険な目に遭わせてしまい守ると決めた親友。
彼女の為ならば汐先だって怖くない。

「周君。危険を承知で、共に行ってくれるかい」
「勿論です、継雅様。清姫は絶対に何があっても助けます」

周の迷いのない言葉に、今まで硬かった継雅の顔がほぐれた。

「ありがとう。……清姫が攫われたと聞いて
 私はご飯が喉を通らないわ眠れないわで……」

擦り切れそうに紡がれる言葉に周の心も痛む。
汐先が外道だとは思わないが、
清姫はご飯をもらっていないかもしれない。
恐怖に震えて眠れないのかもしれない。
そう思うと、今にも駆け出したくなる。

「……胃は痛むし、目眩はするし、彼女の幻影が見えるし、
 やっと眠れたと思ったら清姫が汐先に……
 あああぁぁあぁ……悲鳴を上げて飛び起きましたよ……」

完成された正座から体勢を崩し、前にずるずると
倒れていく継雅。着物が畳に擦れようがお構いなしだ。

「清姫に何かあったら……もし操が……、
 ああ駄目だ。もうこのまま消えたい」
「お気を確かに継雅様! 汐先とてそこまで外道ではないですよ!
 そ、それに汐先って女性に興味がないしみたいだし……」

嘆く民のような姿勢になり顔を腕で覆い沈み込む姿を
周は必死で励ますが、

「いいえ。清姫の麗しくも男を知らぬ純粋純潔な心と姿は
 彼女が意識しなくともあらゆる男を惑わしてしまうのです。
 嗚呼……なんて罪深い妹……!」

嘆いているのかなんなのかよく分からなくなってきた。
ともすれば身投げしてしまいそうな継雅を全力で宥めながら
周は今晩の清姫救出の事を相談して決めて、
継雅の世話役に彼から絶対に目を離さないよう念を押してから
部屋を去った。

「完璧な人間って……いないのね」

部屋を出た周の顔は、若干老けていたように思えた。



圭雪、修芳、佐巻は昨日の疲れが引いている。
秋澄、白里、傘音、路灯は何があったのかは知らないが
やや疲れているように思えた。
必然的に連れて行く式神は杏矢と立葉に決定した。
――杏矢に助けさせれば清姫も喜ぶだろうし。
清姫は杏矢に恋心を抱いている。
しかし当の杏矢は清姫の想いには毛ほども気付いておらず、
清姫の恋はじれったさを極めていた。

「杏矢。清姫を助けたら『君が無事で本当に良かった。
 君を失ったら俺はもう生きていけない』って
 抱きしめながら言ってみたりしてみて」
「それは流石に恥ずかしくね!? やり過ぎだろ!」
「確かに……幸せ絶頂で清姫の魂が抜けるかも」
「え、なんで?」
「そこまで鈍感だといっそ清々しいわ……」

周が杏矢の頭を軽く叩き、彼の抗議の声を無視して
立葉に向き直る。

「お願いね、立葉」
「ああ。上手くやりつつ最後に杏矢を立たせればいいのだな。
 心配せずとも杏矢は全力で行くだろうから、
 私達が隙を作ってやれば彼は突っ込んでいくだろう」
「話が早くて助かるわ」

九人の式神達の中でもとりわけ落ち着いていて大人なのが立葉だ。
常に冷静な彼がいれば、汐先が相手だろうと
こちらが取り乱される事はないだろう。

こうして周は密かに「杏矢に清姫を助けさせていい雰囲気に
してあげましょう」作戦が築かれた。
もっとも上手くいっても清姫にとっては幸福な結果ではあるが、
杏矢にとっては恐ろしい事になるかもしれない。
……主に継雅によって。



そして月が黒い空に高く上がった頃、
寮の入り口で四人は落ち合った。
まず継雅が一応は元気な様子で生きていた事に安堵する。
継雅は普段見る気品溢れる着物ではなく、
質素で動きやすい着物を着ていた。

「周君。連れて行くのは杏矢君と立葉君だけかい?」
「はい。他の七人はちょっと力を消耗していて……。
 でも本当に危ない事になったら強制的に呼び出す事もします」

あまりしなくはないけど、と周は心の中で付け足す。
継雅は「ふむ」と頷き、

「君の式神九人と君と私の合計十一人で一斉に
 汐先に仕掛ける、という策を考えていたんだけどね……」
「継雅ひでぇ!!」
「継雅殿。流石にそれは外道かと」
「それは継雅様の信念に思い切り背いていますよ!」

卑怯な手段で得た力や富など虚しい価値しかない。
正々堂々と戦い、挫けなかった者だけが真の陰陽師となれる。
――普段から見習い達に継雅が言っているお言葉である。
三人から反発を受けるも、継雅は痛みを堪えるような顔で、

「清姫を救う為ならば私の信念を捻じ曲げて
 外道な手段に手を染めるのも厭わない……」
「だ、大丈夫ですよ! 卑怯な手段を使わなくても勝てます!
 それに継雅様が汚れてしまっては清姫は悲しみますよ」

周の言葉に継雅は一瞬ぎょっとした顔のあと、
目を閉じて落ち着くように息を深く吸った。

「……そうだね。私は清姫が傷付くのだけは絶対に嫌だ」
「そうですよ。だから正々堂々戦って、
 かっこよく清姫を助けましょう!」

周の言葉の選択は間違っていなかったらしく、
継雅が上げた顔は少しだけ暗さが掃われていた。

――よかった。もう少しであたしの、
  いや寮生全員の夢が粉砕される所だった。

提灯を持って、颯爽と前を歩き出した継雅の姿に
周は心から安心した。
しかし安心するのはまだ早い。

生暖かく、ぬめったような夜の風が首を撫でて
周は体を一度だけ震わせた。

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